第一話 婚約者が留学してきました
アルセリア王国の空は、今日に限って抜けるように青かった。
王立学園の正門には、赤い絨毯が敷かれ、両脇にずらりと騎士たちが整列している。国旗と、もう一枚——穏健国セルディアの国旗が並んで掲げられているのを見て、フレデリカ・フォン・アルセリアは息をひとつ吐いた。
「緊張してるの、お姉様?」
隣に立つ妹のルクレツィアが、扇の陰でくすりと笑う。今日は彼女の婚約者も同じ日に留学してくる。二つの国から、二人の王太子が同時にやってくる日だった。
「緊張はしていないわ。確認することが多いだけ」
そう答えながらも、フレデリカの胸の奥には、確かに緊張とは少し違う、落ち着かない気持ちがあった。 婚約者に会うのは、これが初めてではない。幼い頃に一度だけ、両国の会談の席で顔を合わせたことがある。 だが、あの時の記憶は、もうずいぶんと朧げになっていた。覚えているのは、自分よりも少し背の高い、線の細い少年が、大人たちの間で居心地悪そうにしていた姿くらいのものだった。
(どんな方になっていらっしゃるかしら)
そんなことを考えている自分に、フレデリカは内心で苦笑を浮かべた。 今日という日は、恋を確かめる日ではない。この国の未来と、婚約者の命を背負う日なのだから。
周囲には、留学を歓迎するために集められた楽団が、音合わせをしている。 花びらを撒く役目の侍女たちが、籠を抱えて整列を始めていた。式典の準備は万全に見えたが、フレデリカの目は、その華やかさの裏にある死角を、無意識のうちに数え続けていた。
「相変わらず可愛くないこと」
妹がそう言った直後、正門の向こうにきらびやかな馬車の列が見えた。 先頭の紋章は、剣を掲げた獅子——グラディス王国のもの。ヴォルフラム王子の一行だ。 歓声が上がる。長身で、遠目にも筋肉質とわかる体格、自信に満ちた笑み。まさに「戦う王太子」の見本のような登場。 ルクレツィアが頬を染めて手を振るのを横目に、フレデリカはもう一台、少し遅れて到着した紋章のない質素な馬車に目を向けた。
扉が開く。 降りてきたのは、線の細い、淡い金髪の青年。 歓声に目を丸くしてから、ふわりと微笑む。動きに気負いがない。 剣を帯びてはいるが、それが日常の一部というより、儀礼のための飾りに見えるほど自然だった。 その笑顔を見た瞬間、フレデリカの胸の奥で、何かがわずかに跳ねた。
(……あら)
自分でも説明のつかない小さな動揺に、フレデリカは戸惑う。だが、それを表に出す余裕はなかった。
「フレデリカ嬢。お迎え、感謝いたします」
エミール・フォン・セルディア。 フレデリカの婚約者であり、セルディア国の王太子。この一年、この国の学園に留学してくる。
「エミール殿下。ようこそアルセリア王国へ」
フレデリカは淑女の礼をとりながら、頭の片隅で別のことを考えていた。
(式典中の警備、正門から寮までの動線、控えている騎士の数——足りない)
冷静な思考の裏側で、彼の声の柔らかさが、なぜか耳に残り続けていることにも、フレデリカは気づいていた。 低すぎず、高すぎない、耳に心地よい声。それだけのことなのに、もう一度聞きたいと思ってしまう自分がいる。
「今日から一年、よろしくお願いします」
エミールの声に、フレデリカは笑みを浮かべて頷く。
「一年間、殿下には……」
言葉を切り、彼女はもう一度、心の中でだけ続けた。
(この方の命を狙う者が、必ず現れる)
セルディア王国は穏健派。 だが、エミールは王位継承の最有力候補であり、同時にグラディスをはじめとする好戦派諸国にとって最大の障害でもある。 フレデリカとの結婚が実現すれば、アルセリアとセルディアの同盟は決定的なものになる。それを望まない勢力は、国境の外にも、そしておそらくこの学園の中にも存在する。
式典が滞りなく進む間も、フレデリカの視線は絶えず周囲を走っている。 招待客に紛れた見慣れない顔、警備の隙間、屋根の上の影。
それでも時折、隣に立つエミールの横顔へ、意識が引き寄せられてしまう自分がいた。 慣れない歓迎の場で、これほど自然な笑顔を保てる人を、フレデリカはこれまで見たことがなかった。
(不思議なお方)
国王の挨拶が終わり、両国の代表による短い演説が続く。 フレデリカは礼儀正しく耳を傾けながらも、視界の端で、ヴォルフラムがエミールをちらちらと値踏みするように見ていることにも気づいていた。あの視線の意味を、この時はまだ正確には理解していなかった。
式典の列が動き出した時、エミールの斜め後ろへ、一人の使用人が近づいてきた。手には盆も花籠もない。挨拶をするには近すぎる距離で、上着の内側へ指を入れるのが見え、フレデリカはエミールの腕に手をかけた。
「殿下。こちらへ」
「はい。……ああ、段差がありますね」
彼はフレデリカの手に自分の手を重ね、階段を下りる足元を気遣ってくれた。背後では、列を横切ったフィンの肩が使用人にぶつかり、二人とも柱の向こうへ消える。衣擦れに混じった短い物音は、楽団の演奏に紛れた。
これで、腕を離してもいいはずだった。
ところがエミールはそのまま歩き始め、フレデリカもつられて足を運ぶ。彼の手袋越しの指が自分の手を支えていることを意識した途端、次の角に誰を配置したのか、頭の中の地図が少しだけ読みにくくなった。
「お足元は大丈夫ですか」
「ええ、もちろんですわ」
「では、もう少しゆっくり行きましょう。皆さんも、まだ後ろですし」
急いで離れる理由までなくなってしまった。フレデリカは前を向き、柱の陰から顔を出したフィンの合図を確かめる。無事に片付いたという報告に頷いたつもりが、エミールには自分の提案への返事と受け取られたらしい。
「よかった」
その笑顔へは、合図の返し方を教わっていない。フレデリカは、今度こそ婚約者として微笑み返した。
式典が終わり、生徒たちが解散していく中、フレデリカは自分の教室へ足を向けた。そこには、すでに十六人の生徒が待っている。フレデリカが一年かけて選び抜いた、この学園でもっとも風変わりなクラスと言えるかもしれない。
「集まっていただき、感謝いたします」
扉を閉め、フレデリカは切り出した。
「今日から殿下がこの学園に通われます。皆さんにお願いしたいことは一つだけ」
教室にいるのは、成績表の上ではけっして目立たない生徒。 毒物や薬物にだけ異様に詳しい令嬢リーゼロッテ。剣術より射撃で名を馳せる令息ガウェイン。表情を変えず気配を殺すのが得意な情報屋フィン。傷の手当てにかけては学園医も舌を巻く治癒師マルグリット。そして、フレデリカの右腕として全体を取りまとめる副隊長格のダリウス。
それ以外にも、名前より役割で語られる生徒たちが十人以上、席についている。
「殿下には、この一年間だけは、普通の学生として過ごしていただきます。命を狙われていることも、守られていることも、一切気づかせないように」
フレデリカはゆっくりと、一人ひとりの顔を見た。 教室に短い沈黙が落ちる。それから、リーゼロッテが手をそっと挙げた。
「つまり——わたくしたちが殿下の護衛、ということでよろしいですか」
「ええ。表向きは、ただのクラスメイト。裏では、殿下の命を守る者たち」
フレデリカは黒板に一枚の紙を貼った。学園の見取り図だ。 すでに赤いペンで危険箇所らしき印がいくつも書き込まれている。
「今日だけで、学園敷地内に不審な侵入の痕跡が三カ所。式典中の招待客リストにない人物が二人。これから、もっと増えるはずよ」
ダリウスが淡々と立ち上がり、見取り図を四つの区画に分けた。
「前衛四名、通路左右各三名、後方支援四名、残りは遊撃。いつもの班分けでいいか」
「ええ、お願い」
「初日から、ずいぶん派手な歓迎だな」
ガウェインが、口笛を吹く真似をすると、リーゼロッテが小瓶を軽く振りながら付け加える。
「解毒剤の在庫、今日中に見直しておきますわ。今夜あたり、動きがありそうな気配ですもの」
「気配だけなら、もう三つ拾ってる」
フィンもひとつ頷く。
「三つって、朝から働きすぎでしょ、あなた」
「向こうが働きすぎなだけだ」
リーゼロッテとフィンの淡々としたやり取りに、ガウェインがふっと吹き出した。
「お前ら、息ぴったりだな。付き合ってんのか」
「違うわ」
「違う」
声が綺麗に重なったのを見て、ダリウスがぼそりと呟く。
「息ぴったりなのは、否定するところだけだな」
淡々としたやり取りの中に、それぞれの緊張と、それでいて場慣れした落ち着きが同居していた。フレデリカは、その様子を見渡しながら、改めてこのクラスを選んでよかったと再確認する。
窓の外では、夕日が学園の尖塔を橙色に染めている。 寮の方向から、エミールが誰かと楽しげに話しながら歩いているのが見えた。穏やかで、何も知らないように見える横顔。 その優しい笑い方を、また少し見てしまってから、フレデリカは慌てて視線を地図へ戻した。
(今は、任務に集中しなくては)
自分に言い聞かせるように、フレデリカは首を横に振った。だが、胸の奥に残った、彼の笑顔に感じた高鳴りだけは、なかなか消えてくれない。
渡り廊下の陰を、フィンが横切っていく。その脇に抱えられた上着が式典の使用人のものだと確かめたところで、教室の扉が控えめに叩かれた。
「フレデリカ嬢。明日のご案内のことで、少しよろしいですか」
地図を裏返すダリウスの手と、小瓶をしまうリーゼロッテの手が同時に動く。フレデリカは何ごともなかった顔で扉を開けた。
「ええ、何でしょう」
「案内は、二人きりでお願いできますか。今日、あまりお話ができなかったので」
断る理由はない。断りたい理由も、なかった。
「もちろんですわ」
エミールを見送って扉を閉めると、残った仲間たちの視線が待っていた。ダリウスが裏返した地図を元に戻し、明日の配置を示した駒を指でつつく。
「……二人きり、だそうだが」
「二人きりに見えればいいのよ」
フレデリカはそう答え、まず自分の隣に置かれていた護衛の駒を、そっと遠ざけた。
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