第五話 監査官
監査局の人間が来る。
その知らせを聞いた瞬間、
宮廷実務室の空気が微妙に変わった。
「よりによって今か……」
「面倒な時期に」
「絶対また書類指摘ですよ」
官僚たちが小声でぼやく。
監査局。
正式には王国監査局。
王宮内の予算、
人事、
業務記録、
地方行政まで調査権を持つ独立機関。
つまり、
嫌われ役だ。
不正を暴き、
責任を追及し、
例外を認めない。
だから現場からは煙たがられている。
レティシア・ヴァレンフォール
も例外ではなかった。
監査局の人間は、
現場を知らない。
書類上の正論だけで動く。
冷酷で、
融通が利かず、
味方にならない。
そんな印象がある。
「レティシア様、対応をお願いできますか?」
当然のように話が回ってくる。
彼女は小さく息を吐いた。
「承知しました」
断る選択肢はない。
午後。
監査局用応接室。
扉を開けた瞬間、
レティシアは少しだけ意外に思った。
地味だった。
ソファに座っていた男は、
いかにも官僚然とした黒い服を着ている。
飾り気がない。
背は高いが威圧感は薄い。
静かな灰色の瞳だけが、
妙に印象に残った。
男は立ち上がる。
「初めまして。監査局特別監査官、
カイル・エヴァンス
です」
低く落ち着いた声。
レティシアは一礼する。
「侯爵令嬢レティシア・ヴァレンフォールです。本日はどの案件をご確認に?」
通常なら、
まず資料確認に入る。
予算か、
飢饉対応か、
輸送記録か。
しかし。
カイルは机の資料に一切目を向けず、
レティシアを見た。
数秒。
静かな観察。
そして言った。
「あなた、三日寝てませんね」
レティシアの思考が止まる。
部屋が静まり返った。
「……は?」
珍しく、
間の抜けた声が出た。
カイルは淡々としている。
「正確には浅い睡眠を短時間。まとまった休息は取れていない」
「なぜそう思われるのです?」
すると彼は、
まるで報告書を読むような口調で答えた。
「顔色が悪い」
「呼吸が浅い」
「筆記時の筆圧が不安定」
「視線移動の速度が落ちています」
「あと、先ほどから集中が三秒ごとに途切れている」
レティシアは言葉を失った。
この男。
資料を見ていない。
実績も、
立場も、
成果も見ていない。
ただ、
自分自身を見ている。
「……監査官というより医師のようですわね」
なんとか皮肉を返す。
だがカイルは表情を変えなかった。
「監査官も似たようなものです」
「?」
「壊れる前兆を見つける仕事ですから」
その言葉に、
レティシアの胸が妙にざわついた。
壊れる。
その単語を、
この王宮で正面から口にする人間は少ない。
皆、
「頑張り」
「責任感」
「忠誠」
と言い換える。
だがこの男は、
最初から“破綻”として扱っていた。
「北部支援班の件で来ました」
カイルはようやく資料を開く。
「青年官僚過労案件。業務配分と指揮系統を確認します」
レティシアは少し目を細めた。
「責任者探しですか?」
「違います」
即答だった。
「構造確認です」
レティシアは一瞬だけ息を止める。
構造。
彼もまた、
個人の努力不足ではなく、
仕組みの問題を見ている。
「……珍しい方ですのね」
思わず漏れた言葉に、
カイルは書類から目を上げた。
「そうですか?」
「大抵の方は、“頑張った結果”として処理します」
「ええ。だから同じことが繰り返される」
静かな声だった。
感情的ではない。
だが確信がある。
カイルは資料を閉じる。
そしてまっすぐ、
レティシアを見る。
「優秀な人間ほど、自分の破綻に気づくのが遅い」
その瞬間。
レティシアの胸の奥で、
何かが止まった。
前世。
終電。
鳴り続ける通知。
「まだやれる」
「大丈夫」
「自分がやらなきゃ」
そうやって壊れていった記憶。
彼女は初めて、
返す言葉を失った。




