第三十三話 婚約者
夜会の音楽が、
遠くで静かに流れていた。
王城東棟、
小庭園。
夜風が薔薇を揺らしている。
そこにいるのは、
二人だけだった。
アルベルト第一王子
と、
レティシア・ヴァレンフォール
。
長い間、
婚約者だった二人。
幼い頃から共に育ち。
宮廷を支え。
同じ未来を見ていた。
少なくとも、
昔は。
アルベルトは、
庭園の噴水を見つめたまま言った。
「最近、君と話すたびに」
「自分が間違っている気がする」
その声には、
疲労が滲んでいた。
責める響きではない。
ただ、
苦しそうだった。
レティシアは静かに答える。
「殿下は間違っていません」
それは本心だった。
アルベルトは優しい。
誰かを救いたいと、
本気で願っている。
困っている人間を放っておけない。
苦しむ民を見捨てられない。
王としては、
むしろ理想的なのかもしれない。
だからこそ。
彼は自分を削る。
そして。
周囲にも、
それを求めてしまう。
無自覚に。
アルベルトは苦笑した。
「でも君は、そうは思っていない顔だ」
レティシアは少し黙った。
夜風が吹く。
遠くで、
舞踏会の笑い声が響いていた。
別世界みたいだった。
アルベルトは続ける。
「昔の君は」
「もっと、人のために無理をしていた」
「誰より働いて」
「誰より耐えて」
「全部抱えていた」
そして。
彼は静かに言った。
「……君は変わってしまった」
その言葉に。
レティシアの胸が、
少しだけ痛んだ。
変わった。
確かにそうだ。
昔の彼女なら。
全部引き受けていた。
限界まで働き。
誰にも頼らず。
倒れる寸前まで耐えていた。
それを。
責任だと思っていた。
でも。
もう違う。
レティシアは、
ゆっくり目を伏せた。
「……いいえ」
小さな声。
「壊れなくなりたかっただけです」
アルベルトが息を呑む。
レティシアは、
静かに続けた。
「私はずっと」
「壊れることを、“仕方ない”と思っていました」
「優秀なら耐えられる」
「責任ある立場なら当然」
「そう思っていたんです」
自嘲気味に笑う。
「でも違いました」
「壊れた人間は、何も守れない」
アルベルトは何も言わない。
レティシアの横顔を、
ただ見つめている。
彼もまた、
分かっているのだ。
彼女がどれだけ無理をしてきたか。
どれだけ一人で支えていたか。
知っている。
だから苦しい。
アルベルトは、
低い声で言った。
「……私は」
「誰も見捨てたくない」
レティシアは頷く。
「ええ」
「殿下はそういう方です」
それは美徳だ。
尊い願いだ。
でも。
現実は残酷だった。
全部を救おうとすると。
誰かが壊れる。
そして大抵、
壊れるのは。
“頑張れる人”だ。
アルベルトは苦しそうに笑う。
「君は現実を見ている」
「私は理想を見ている」
「……そういうことなのかな」
レティシアは答えられなかった。
違う。
どちらも、
人を救いたいだけだ。
ただ。
方法が違う。
致命的に。
長い沈黙。
やがてアルベルトは、
ゆっくり口を開く。
「婚約の件だけど」
その瞬間。
空気が変わった。
レティシアは静かに顔を上げる。
アルベルトは、
どこか諦めたように微笑んだ。
「……一度、整理した方がいいと思う」
王族の婚約。
それは恋愛ではない。
政治。
国家。
未来。
全てに関わる。
だからこそ。
価値観の断絶は、
致命的だった。
レティシアは、
静かに目を閉じる。
悲しくないわけじゃない。
長い時間を共にした。
尊敬もしている。
大切だった。
でも。
もう。
同じ未来を歩けない。
「承知いたしました」
その返答は、
驚くほど穏やかだった。
アルベルトは、
少しだけ苦しそうに笑う。
「最後まで、君は冷静だな」
レティシアも、
ほんの少しだけ笑った。
「泣き喚いた方が良かったですか?」
「いや」
アルベルトは首を振る。
「……君らしいよ」
その言葉が。
最後だった。
夜風が吹く。
薔薇が揺れる。
二人は並んで立っているのに。
もう、
同じ場所を見ていなかった。
その夜。
王宮内部で、
婚約破棄の調整が静かに始まった。




