第三十二話 救えないもの
王城西棟、
第一応接室。
窓から差し込む夕陽が、
赤く室内を染めていた。
静かな部屋だった。
だが。
空気は重い。
向かい合って座る二人の間には、
目に見えない緊張が張り詰めている。
アルベルト第一王子
は、
疲れた顔をしていた。
洪水対応。
復旧支援。
地方調整。
彼もまた、
限界近くまで働いている。
それでも。
その目には、
まだ理想が残っていた。
「北西部の復旧支援だけど」
アルベルトは資料を見ながら言う。
「追加人員を出せないかな」
「避難民対応も、もっと手厚くしたい」
対する
レティシア・ヴァレンフォール
は、
静かに資料を確認する。
「不可能です」
即答だった。
アルベルトが顔を上げる。
レティシアは淡々と続けた。
「現時点で中央官僚の疲弊率は危険域です」
「地方復旧人員も不足しています」
「これ以上拡張すれば、別区域の支援が崩壊します」
冷静な分析。
数字。
人員表。
労働記録。
全部、
現実だった。
だが。
アルベルトは苦しそうに眉を寄せる。
「でも、支援を待っている人がいる」
「見捨てるわけにはいかないだろう?」
その言葉に。
レティシアは小さく目を伏せた。
この人は本当に優しい。
だから苦しい。
アルベルトは続ける。
「もっと皆で頑張れば――」
その瞬間。
レティシアの胸の奥で、
何かが軋んだ。
またその言葉だ。
“皆で頑張る”。
綺麗な言葉。
でも実際には。
頑張れる人間へ、
負荷が集中する。
無理できる人間が、
更に無理をする。
そして壊れる。
それを、
彼女は何度も見てきた。
前世でも。
この国でも。
レティシアは静かに言った。
「限界があります」
アルベルトが息を飲む。
彼女は続ける。
「人員にも」
「制度にも」
「組織にも」
「全部に限界があるんです」
室内が静まり返る。
アルベルトは、
どこか信じたくない顔をしていた。
「でも……」
「救える命があるなら」
「最後まで手を伸ばすべきじゃないのか?」
その声は、
王子ではなく。
ただの善人だった。
レティシアは、
少しだけ苦しそうに目を細める。
彼は間違っていない。
人を救いたい。
誰も見捨てたくない。
それ自体は、
正しい願いだ。
でも。
現実は。
有限だ。
人間も。
時間も。
資源も。
無限じゃない。
だからこそ、
選ばなければならない。
切り捨てなければならない。
それが。
責任だ。
レティシアはゆっくり口を開いた。
「救えないものを認めるのも責任です」
空気が凍った。
アルベルトの顔から、
血の気が引く。
「……何を言ってるんだ」
掠れた声。
レティシアは逸らさない。
「全部を救おうとすれば、全部が崩れます」
「限界を無視した善意は、組織を壊します」
「だから優先順位が必要なんです」
「守れる範囲を守るために」
アルベルトは立ち上がった。
「見捨てろと言うのか!?」
激しい声だった。
感情を荒げる彼は珍しい。
それだけ、
許せなかったのだ。
レティシアの言葉が。
アルベルトは震える声で続ける。
「苦しんでいる人を切り捨てるのが、責任だと言うのか!?」
レティシアの胸が痛む。
でも。
ここで目を逸らせば、
また同じことが起きる。
誰かが壊れる。
だから彼女は、
静かに答えた。
「誰も切り捨てたくありません」
「でも現実には、限界があります」
「それを認めず、“もっと頑張れ”で押し切った結果が」
一拍置く。
「今までのこの国です」
アルベルトは、
言葉を失った。
グラハム宰相。
倒れた官僚。
潰れた騎士。
全部、
思い当たる。
でも。
それでも。
彼は理想を捨てられない。
「……私は」
アルベルトは低く言う。
「皆を救える国にしたい」
その願いは、
本物だった。
だからこそ。
レティシアは、
静かに目を閉じる。
この人とは。
もう。
同じ場所へ進めない。
善人だから。
優しいから。
だから決定的に、
噛み合わない。
沈黙が落ちる。
長い。
苦しい沈黙。
やがて。
アルベルトは、
ゆっくり視線を逸らした。
レティシアも何も言わない。
二人の間には、
取り返しのつかない溝が生まれていた。




