第三十一話 努力できる人
洪水から数週間。
王宮は、
表面上の落ち着きを取り戻していた。
復旧も進んでいる。
改革制度も、
少しずつ定着し始めている。
だが。
その裏側で、
別の反発が広がっていた。
「最近の若者は軟弱だ」
食堂で、
年配官僚が呆れたように言う。
「少し忙しいだけで休みたがる」
周囲も苦笑混じりに頷く。
「昔は三日徹夜なんて普通だった」
「災害対応で寝る暇があるだけマシだろう」
地獄だった。
誰も悪意はない。
むしろ。
彼ら自身が、
そうやって働いてきた。
耐えて。
我慢して。
無理をして。
だから。
“耐えられる人間ほど立派”
という価値観が、
骨の髄まで染み込んでいる。
廊下を歩いていた
レティシア・ヴァレンフォール
は、
その会話を聞きながら小さく目を伏せた。
問題は、
悪人じゃない。
怠惰でもない。
努力を尊ぶこと自体は、
悪ではない。
でも。
“努力できる人間ほど偉い”
という価値観は。
限界まで頑張れる人間を、
際限なく消耗させる。
そして。
努力できない時、
人は自分を責め始める。
休めなくなる。
助けを求められなくなる。
それが、
一番危険だった。
その頃。
王宮旧資料室の一角では、
新しい取り組みが始まっていた。
小さな机。
温かい茶。
簡易相談窓口。
発案者は、
ミレイユ・ローゼン
だった。
看板には、
丸い字で書かれている。
『若手官僚相談室』
最初にそれを見た時、
多くの官僚は困惑した。
「相談……?」
「何を?」
「仕事の質問ですか?」
違う。
ミレイユは、
もっと根本的なことを考えていた。
疲れている。
困っている。
不安がある。
そういう時に、
“助けを求められる場所”
を作りたかったのだ。
だが。
誰も来ない。
初日。
来訪者ゼロ。
二日目。
遠巻きに見られるだけ。
三日目。
若手官僚が入口まで来て、
逃げた。
皆、
相談すること自体に慣れていない。
むしろ。
“相談=無能”
だと思っている。
レティシアはその様子を、
少し離れた場所から見ていた。
「……難しいわね」
そう呟くと、
ミレイユは苦笑した。
「ですねぇ」
しかし彼女は、
全く諦めていなかった。
その日の夕方。
一人の若手官僚が、
恐る恐る相談室へ入ってくる。
まだ新人に近い青年だ。
顔色が悪い。
ミレイユは、
いつも通り柔らかく笑った。
「どうしました?」
青年はしばらく迷い、
やがて小声で言った。
「……仕事が遅くて」
「皆みたいにできなくて」
「迷惑をかけてる気がするんです」
ミレイユは、
すぐには答えなかった。
否定もしない。
説教もしない。
ただ静かに、
彼の話を聞く。
青年は少しずつ、
溜め込んでいた言葉を零し始めた。
「休むのも怖くて」
「相談したら、甘えてるって思われそうで」
「だから……」
声が震える。
レティシアは、
胸の奥が重くなるのを感じた。
昔の自分と、
あまりにも似ていた。
その時。
ミレイユが、
優しく笑った。
「助けを求めるのって、能力なんですよ」
青年が目を見開く。
レティシアも、
思わず顔を上げた。
ミレイユは続ける。
「一人で全部抱え込む方が、実は危ないんです」
「周囲を頼れる人の方が、長く働けます」
あまりにも自然に。
彼女はそう言った。
レティシアは、
少し衝撃を受けていた。
助けを求めること。
頼ること。
弱音を吐くこと。
それを。
“能力”
と表現した人間を、
初めて見た気がした。
レティシアはずっと。
耐えることが強さだと思っていた。
一人で抱えることが、
責任だと思っていた。
でも。
ミレイユは違う。
人へ頼ることを、
恥だと思っていない。
その強さは。
レティシアが持っていない種類のものだった。




