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悪役令嬢は消耗しない  作者: 南蛇井


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第三十話 聖人

王都南区の孤児院には、

朝から長い列ができていた。


 


炊き出しの日だ。


 


大鍋から立ち上る湯気。


焼き立ての黒パン。


温かなスープ。


 


子供たちが、

嬉しそうに笑っている。


 


そしてその中心に、

アーヴィング大司教

がいた。


 


「慌てなくていいですよ」


 


老人は穏やかに微笑みながら、

一人一人へ食事を渡していく。


 


疲れた母親へ声をかけ。


泣いている子供をあやし。


怪我人へ祝福を与える。


 


その姿は、

まさしく聖人だった。


 


民衆から支持される理由が、

よく分かる。


 


実際。


 


彼は善人だ。


 


災害地への慰問も。


孤児院支援も。


貧民街炊き出しも。


 


全部、

何十年も続けている。


 


権力欲でも。


名声欲でもない。


 


本当に、

人を救いたいと思っている。


 


だからこそ。


 


レティシアは、

余計に息苦しさを覚えていた。


 


 


少し離れた場所で、

レティシア・ヴァレンフォール

はその光景を見ていた。


 


隣には

カイル・エヴァンス

が立っている。


 


「人気がありますね」


 


レティシアの呟きに、

カイルは短く答える。


 


「実際、多くを救っていますから」


 


否定できない。


 


大司教は、

確かに人々を支えている。


 


問題は。


 


その“支え方”だった。


 


 


炊き出しが終わった後。


 


アーヴィングは、

レティシアへ穏やかに微笑んだ。


 


「侯爵令嬢」


 


「災害対応、お疲れ様でした」


 


柔らかな声音。


 


責める気配はない。


 


だがレティシアは、

自然と背筋を伸ばしていた。


 


この人は危険だ。


 


悪意がないからこそ。


 


 


二人は孤児院の中庭を歩く。


 


子供たちの笑い声が遠くで響く。


 


平和な光景。


 


だから余計に、

会話内容との温度差が際立った。


 


アーヴィングは静かに言う。


 


「今回、多くの者が懸命に働きました」


 


「素晴らしいことです」


 


「苦難の中でこそ、人は強くなれる」


 


レティシアは答えない。


 


大司教は続ける。


 


「犠牲なき国家に繁栄はありません」


 


その言葉に、

レティシアの足が止まった。


 


老人は本気だ。


 


心から、

そう信じている。


 


苦しみ。


忍耐。


献身。


 


それを、

高潔だと思っている。


 


レティシアは静かに言った。


 


「犠牲を前提にしてはいけません」


 


アーヴィングが、

ゆっくり彼女を見る。


 


敵意はない。


 


ただ、

考え方が違う。


 


「理想論ですな」


 


大司教は穏やかに笑う。


 


「人は未熟です」


 


「未熟だからこそ、困難を越えて成長する」


 


「己を削る覚悟なくして、他者は救えません」


 


その言葉に。


 


レティシアの脳裏へ、

いくつもの顔が浮かぶ。


 


倒れた若手官僚。


 


過労で意識を失った騎士。


 


前世で壊れていった同僚たち。


 


皆。


 


“頑張るべき”


と思っていた。


 


“もっと耐えられる”


と信じていた。


 


そして壊れた。


 


レティシアは静かに返す。


 


「壊れた人間は、誰も救えません」


 


風が吹く。


 


子供たちの笑い声が遠ざかる。


 


アーヴィングは、

少しだけ目を細めた。


 


「しかし侯爵令嬢」


 


「己を犠牲にできぬ人間に、他者は守れますかな?」


 


その問いは、

鋭かった。


 


レティシア自身。


 


長く、

自己犠牲で生きてきたからだ。


 


だから分かる。


 


その思想の危険性を。


 


彼女はゆっくり答える。


 


「犠牲は時に必要です」


 


「ですが」


 


一拍置く。


 


「犠牲を前提にした組織は、必ず誰かを食い潰します」


 


アーヴィングは何も言わなかった。


 


否定もしない。


 


ただ静かに、

レティシアを見つめている。


 


思想戦だった。


 


どちらも、

本気で人を救いたいと思っている。


 


だからこそ、

噛み合わない。


 


 


帰り道。


 


王都の夕暮れを歩きながら、

レティシアは深く息を吐いた。


 


疲労ではない。


 


重さだ。


 


制度より難しいもの。


 


価値観。


思想。


文化。


 


それを変えなければ、

また誰かが壊れる。


 


その時。


 


隣を歩いていたカイルが、

静かに口を開いた。


 


「最も危険なのは」


 


淡々とした声。


 


「善意で人を潰す思想です」


 


レティシアは、

ゆっくり目を閉じた。


 


否定できなかった。

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