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悪役令嬢は消耗しない  作者: 南蛇井


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第二十九話 洪水の後

雨は止んだ。


 


王都の空には、

久しぶりに青が戻っている。


 


けれど。


 


王宮の空気は、

まだ重かった。


 


 


洪水被害そのものは、

徐々に収束し始めている。


 


避難所は整理され。


主要街道も一部復旧。


地方間連携も安定してきた。


 


だが今度は、

“復旧作業”が始まっていた。


 


壊れた橋。


崩れた堤防。


失われた備蓄。


 


やることは山ほどある。


 


そして当然のように。


 


また、

無理をする人間が現れ始めていた。


 


 


「第三倉庫の再整理、本日中に終わらせます!」


 


「西側堤防補修、徹夜で進めます!」


 


「避難民名簿、朝までに再作成します!」


 


官僚たちは忙しく動き回る。


 


以前よりは、

確かに改善した。


 


分担もある。


相談も増えた。


 


だが。


 


根っこの部分は、

まだ変わっていない。


 


“頑張れる人間が頑張るべき”


という空気。


 


それが、

静かに残っている。


 


 


レティシア・ヴァレンフォール

は復旧計画書を確認しながら、

小さく眉を寄せた。


 


提出された労働記録。


 


その中に、

明らかに異常な数字がある。


 


連続勤務。


短時間睡眠。


休養未取得。


 


彼女はすぐ、

担当官僚を呼び出した。


 


現れたのは、

二十代半ばの青年官僚だった。


 


顔色が悪い。


 


目の下には、

濃い隈。


 


どう見ても疲弊している。


 


レティシアは静かに言った。


 


「休養申請が出ていませんね」


 


青年官僚は、

少し困ったように笑う。


 


「まだ大丈夫です」


 


その笑顔が。


 


嫌なほど、

昔の自分に似ていた。


 


レティシアの胸が冷える。


 


「大丈夫には見えません」


 


すると彼は、

本当に不思議そうな顔をした。


 


「でも、皆もっと働いてますから」


 


――。


 


レティシアの背筋に、

冷たいものが走った。


 


それだ。


 


問題は。


 


制度だけではない。


 


価値観そのもの。


 


“自分程度で休んではいけない”。


 


“もっと辛い人がいる”。


 


“倒れるまで働くのが誠実”。


 


その思想が、

人間を壊す。


 


しかも本人たちは、

善意でやっている。


 


誇りすら持っている。


 


だから厄介なのだ。


 


 


レティシアは静かに資料を閉じた。


 


「今日は帰りなさい」


 


青年官僚は驚く。


 


「ですが仕事が――」


 


「引き継ぎなさい」


 


「でも……」


 


レティシアは少しだけ、

強い声を出した。


 


「あなたが倒れた後の方が、周囲は困ります」


 


青年は言葉を失う。


 


その表情を見て、

レティシアは理解してしまう。


 


この国ではまだ。


 


“休め”


という言葉が、

優しさではなく叱責として聞こえる。


 


 


夕方。


 


王都中央広場では、

復興祈願式典が開かれていた。


 


民衆が集まり。


兵士が並び。


聖歌隊が歌う。


 


そして壇上へ、

アーヴィング大司教

が現れる。


 


穏やかな老人。


 


慈愛に満ちた笑顔。


 


民衆人気は絶大だ。


 


彼が手を上げるだけで、

広場の空気が変わる。


 


大司教は静かに語り始めた。


 


「今回の災害で、多くの人々が苦難に立ち向かいました」


 


「眠れぬ夜を越え」


「己を犠牲にし」


「他者のために尽くした」


 


民衆が静かに聞き入る。


 


「その献身こそが、この国を支えているのです」


 


力強い拍手。


 


熱狂。


 


大司教はさらに続ける。


 


「苦難に耐える人間こそ尊い」


 


「困難から逃げず、耐え抜く精神こそ高潔なのです」


 


広場が歓声に包まれる。


 


涙ぐむ者までいる。


 


皆、

感動していた。


 


だが。


 


群衆の後方で、

レティシアだけが静かに立ち尽くしていた。


 


理解してしまったのだ。


 


この国の問題は、

怠惰ではない。


 


悪意でもない。


 


むしろ逆だ。


 


“耐えることを美しいとする思想”。


 


“自己犠牲を称賛する文化”。


 


それこそが。


 


優秀な人間を、

際限なく食い潰していく。


 


アーヴィングは悪人ではない。


 


本気で人々を愛している。


 


だからこそ、

危険だった。


 


レティシアは、

歓声に包まれる広場を見つめながら思う。


 


――本当の敵は、

人ではない。


 


“壊れることを美徳にする思想”

そのものだ。

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