第十九話 大雨
雨が止まらなかった。
朝から。
昼も。
夜になっても。
王都全域を、
重い灰色の空が覆っている。
石畳を叩く雨音は絶えず、
まるで世界そのものが軋んでいるようだった。
王宮内も落ち着かない。
廊下を行き交う官僚たち。
運ばれる書類。
飛び交う報告。
「北部河川、水位上昇!」
「西部街道、一部通行不能!」
「避難準備要請が――」
災害対応室は既に慌ただしい。
だが。
空気そのものは、
まだ“通常範囲”だった。
「まあ、この時期なら毎年ある」
ベテラン官僚が書類をめくりながら言う。
「多少の洪水は仕方ない」
「例年通り対応すればいい」
周囲も頷く。
確かに。
王国はこれまでも、
幾度か水害を経験してきた。
だから皆、
今回も“いつもの災害”だと思っている。
だが。
その空気の中でただ一人、
レティシア・ヴァレンフォール
だけが違った。
彼女は窓際で、
地方報告書を読んでいる。
一枚。
また一枚。
そのたびに、
眉間の皺が深くなっていく。
「……遅い」
小さく呟く。
隣にいた
カイル・エヴァンス
が視線を向けた。
「何がです?」
レティシアは報告書を机へ置く。
「報告経路です」
「北部第三区域の氾濫兆候」
「報告提出は昨夜」
「王都到着は今朝」
「半日以上遅れている」
カイルは静かに資料を見る。
確かに遅い。
通常なら、
もう少し早く届くはずだ。
「通信障害では?」
「違います」
レティシアは即答する。
「これは“判断待ち”です」
彼女は別資料を開いた。
そこには地方役所からの文面。
『避難勧告発令許可を申請』
『備蓄放出許可待機中』
『河川封鎖確認申請』
全部。
“許可待ち”。
レティシアの表情が険しくなる。
「現場が自分で決められていない」
中央確認。
中央承認。
中央責任。
つまり。
中央が詰まれば、
全部止まる。
カイルは低く言う。
「権限集中ですね」
「ええ」
レティシアは窓の外を見る。
激しい雨。
嫌な予感がしていた。
これはただの水害じゃない。
“組織構造”そのものが試される。
そんな感覚。
午後。
災害対応会議。
重臣たちは比較的落ち着いていた。
「地方へ追加支援を」
「輸送路確認を急げ」
「例年より被害は大きいが対応可能だろう」
いつもの会議。
いつもの対応。
だがレティシアは違和感を拭えない。
「北東部は?」
彼女が尋ねる。
担当官僚が答えた。
「現地判断待ちです」
「避難開始は?」
「許可申請中」
レティシアの目が細くなる。
遅い。
遅すぎる。
「河川水位は既に危険域です」
「ですが正式決裁が――」
「待っていたら間に合いません!」
珍しく強い声だった。
室内が静まる。
だが年配貴族は落ち着いた顔で言う。
「焦りすぎですな、レティシア嬢」
「災害時こそ秩序が必要だ」
秩序。
つまり。
“上の許可が出るまで動くな”。
レティシアは無意識に拳を握った。
前世でも見た。
判断責任を恐れ、
誰も決めない組織。
その間に、
現場だけが壊れていく。
夜。
雨はさらに激しくなった。
王宮の窓を叩く水音が、
まるで警告みたいに響く。
レティシアは執務室で、
北東部の地図を見つめていた。
河川流域。
避難区域。
橋梁。
備蓄倉庫。
嫌な位置関係だった。
その時。
扉が激しく開く。
伝令官が飛び込んできた。
顔面蒼白。
「緊急報告!!」
室内の空気が変わる。
伝令官は震える声で叫んだ。
「北東部大河川――」
息を飲む音。
「堤防が決壊しました!!」
数秒。
誰も動かなかった。
そして次の瞬間。
王宮全体が、
一気に騒乱へ変わった。




