第十二話 善人の圧力
午後の執務室は珍しく静かだった。
窓から差し込む陽光が、
机の書類を淡く照らしている。
レティシア・ヴァレンフォール
は改革関連資料を整理していた。
業務記録制度。
引き継ぎ管理。
労働時間報告。
導入から数週間。
現場の混乱は続いている。
だが同時に、
少しずつ成果も見え始めていた。
「失礼するよ」
柔らかな声。
顔を上げると、
アルベルト第一王子
が立っていた。
今日も完璧な笑顔だ。
人を安心させる笑み。
「お忙しいところ申し訳ありません」
レティシアは立ち上がる。
「いや、少し話したくてね」
アルベルトは気軽に椅子へ座った。
彼は改革に反対しているわけではない。
むしろ協力的だ。
実際、
試験導入を許可したのも彼だった。
だから余計に、
厄介だった。
「最近、大変そうだね」
アルベルトは苦笑する。
「苦情も多いだろう?」
「ええ。それなりには」
「でも成果も出ていると聞いたよ」
彼は本当に嬉しそうだった。
「若手官僚たちも助かってるらしいじゃないか」
「定時帰宅できた者もいるとか」
レティシアは少し驚く。
そこまで把握していたのか。
アルベルトは続ける。
「僕は良いことだと思う」
真っ直ぐな声。
「皆が働きやすくなるのは大切だからね」
その言葉自体は、
間違っていない。
レティシアは静かに頷いた。
「ありがとうございます」
アルベルトは机上の資料を見て、
少し困ったように笑う。
「ただ……」
来る。
レティシアは無意識に背筋を伸ばした。
「少し急ぎすぎじゃないかな?」
穏やかな口調。
責める声ではない。
「現場も混乱しているし、皆かなり疲れているみたいだ」
レティシアは答える。
「現状維持の方が、長期的損失は大きいと判断しています」
「うん、それはわかる」
アルベルトは頷いた。
「でもね」
彼は優しく笑う。
「皆で頑張れば、きっと乗り越えられるよ」
その瞬間。
レティシアの思考が、
ぴたりと止まった。
皆で頑張れば。
あまりにも聞き慣れた言葉だった。
前世。
終わらないプロジェクト。
無理な納期。
慢性的な人手不足。
そのたびに、
上司たちは言っていた。
“皆で頑張ろう”
優しい顔で。
励ますように。
善意で。
でも実際には。
頑張る“皆”は、
いつも同じだった。
断れない人間。
責任感の強い人間。
無理ができる人間。
結局そこへ、
負荷が集中する。
レティシアはゆっくり息を吐いた。
「……殿下」
「うん?」
「“皆”とは、誰を指しますか?」
アルベルトは少し目を瞬かせる。
「え?」
「業務負荷は均等ではありません」
レティシアは静かに言う。
「実際には、一部へ集中しています」
「それは改善していけば――」
「今までもそう言われ続けてきました」
少しだけ。
声が冷える。
アルベルトは困ったように眉を下げた。
「レティシア、そんなに張り詰めなくても」
優しい声だった。
心配しているのだ。
本当に。
でも。
彼は理解していない。
“無理できる人間が無理する前提”
でしか、
物事を考えていない。
彼にとって努力は美徳だ。
協力も善意だ。
だから。
その善意が、
誰かを追い詰める可能性を想像できない。
「君は少し、一人で抱え込みすぎるよ」
アルベルトは柔らかく言った。
レティシアは一瞬、
言葉を失う。
――誰のせいだと思ってるの。
喉元まで出かかった。
だが飲み込む。
代わりに、
完璧な笑みを浮かべた。
「ご忠告、感謝いたします」
アルベルトは安心したように笑った。
「無理しないでね」
その言葉だけ残して、
彼は去っていく。
静かになった執務室。
レティシアはしばらく動かなかった。
窓の外では、
夕日が王宮を赤く染めている。
彼女は静かに目を閉じた。
この人は悪人じゃない。
優しい。
誠実だ。
だから多くの人に慕われる。
でも。
「……この人は善人だ」
その声は、
ひどく静かだった。
「だからこそ危険だ」




