第十一話 苦労は美徳
王都中央大聖堂には、
大勢の人々が集まっていた。
平民。
商人。
騎士。
官僚。
皆、
静かに壇上を見上げている。
その中央に立つ老人は、
穏やかな微笑みを浮かべていた。
白髪。
柔らかな眼差し。
落ち着いた声。
アーヴィング大司教
。
王国宗教界の頂点。
人格者として知られ、
民衆人気も極めて高い。
「人は時に、重荷を背負わねばなりません」
静かな声が、
大聖堂へ響く。
誰もが耳を傾ける。
「国家も同じです」
「責任ある立場の者は、苦労から逃げてはならない」
穏やかだ。
威圧感はない。
だが言葉には、
強い芯がある。
「苦しみを避けようとする国家は、やがて弱くなります」
「忍耐こそ、人を育てるのです」
会場のあちこちで、
深く頷く人々。
「苦労から逃げる者に国家運営はできぬ」
拍手が起こる。
大きな。
熱烈な拍手だった。
後方席で、
レティシア・ヴァレンフォール
は静かにその光景を見ていた。
隣には
カイル・エヴァンス
。
「人気ですね」
カイルが小声で言う。
「ええ」
レティシアは短く答えた。
実際、
アーヴィングは善良な人物だ。
貧民街支援もしている。
孤児院運営にも尽力している。
災害時には自ら現地へ赴く。
だから人々は、
彼を尊敬している。
問題は。
その善意の方向だった。
演説後。
大聖堂奥の応接室。
アーヴィングは、
レティシアを見るなり柔らかく笑った。
「お会いできて光栄ですな、ヴァレンフォール嬢」
「こちらこそ、大司教猊下」
向かい合って座る。
老人の目は穏やかだった。
だが油断できない。
「あなたの改革案、耳にしております」
アーヴィングは静かに言う。
「随分と思い切ったことを始められた」
「必要でしたので」
「ふむ」
彼は微笑む。
「しかし人は、時に無理をしてでも責任を果たさねばならぬものです」
レティシアは視線を上げる。
来た。
「責任とは、重荷を背負うことです」
アーヴィングの声は優しい。
責める口調ではない。
だからこそ、
反論しづらい。
「苦労を避けることばかり考えれば、人は弱くなる」
「国家も同じです」
レティシアは数秒黙った。
そして静かに返す。
「潰れるまで背負う必要はありません」
空気が少し変わる。
アーヴィングは驚かない。
ただ穏やかに頷いた。
「ですが、犠牲なくして国家は成り立ちませんよ」
その言葉に、
レティシアの胸がわずかに冷える。
犠牲。
この国では、
その言葉があまりにも軽い。
「私は、犠牲を前提にした仕組みが問題だと思っています」
「理想論ですな」
即答だった。
だが口調は柔らかい。
「誰かが無理をするからこそ、多くが守られる場面もあります」
「それを否定すれば、責任感まで失われる」
レティシアは静かに息を吐いた。
わかってしまう。
この人は悪人ではない。
本気で、
そう信じているのだ。
忍耐。
献身。
自己犠牲。
それらを、
心から尊いと思っている。
だから厄介だった。
悪意の方が、
まだ対処しやすい。
善意で肯定される自己犠牲は、
誰も止められない。
アーヴィングは微笑む。
「若い頃の苦労は、人を育てます」
その瞬間。
北部支援班で倒れた青年官僚の顔が、
レティシアの脳裏を過った。
“期待されていますので”
笑っていた。
壊れる直前まで。
レティシアはゆっくり口を開く。
「育つ前に壊れる人間もいます」
初めて。
アーヴィングの笑みが、
少しだけ止まった。
短い沈黙。
だが老人はすぐに穏やかな表情へ戻る。
「それでも、人は重荷から逃げてはいけません」
平行線だった。
価値観そのものが違う。
応接室を出た後。
レティシアは長い廊下を歩きながら、
静かに呟いた。
「……厄介ね」
カイルが隣で頷く。
「ええ」
そして淡々と言った。
「善人は、自分を正しいと疑わないので」




