【閑話俺は嫌なものを見た➀】
どこの国でも、夜の闇は深いものだ。
黒いマントを頭から被った、小柄なメイドの姿を追うのは、想像以上に骨が折れた。ましてこちらは大男。あちらよりも圧倒的に目立つ。足音のひとつでも立ててしまえば、たちまち後を着けているのがバレてしまうだろう。
俺は視認できるギリギリの遠距離を保ちながら、メイドのビビの後を着けていた。
呼吸の音すら抑え込み、足音を立てないよう神経を研ぎ澄ませる。今日ほど、自分の肌の色が褐色で良かったと思ったことは無い。
幸い、公爵邸の庭園は幹の太い木が多く植わっていたので、身を隠しながら移動出来ていた。
公爵いわく、このメイドは、港近くの住宅地から通っているという話だった。しかし彼女は退勤後も、公爵邸の敷地から出て行かない。庭園を横断して、屋敷の裏手に回っていく。
――ハドウェルのメッセージ、『助けて』の言葉と、地図の目印。その意味を普通に考えると、この屋敷に彼が助け出して欲しい何かが隠されている。もちろん、隠したのはヤンだ。
そしてヤンが不在の間、それを見張っている者が居るはず。家主のコルネリス・ダッチマン公爵でないとしたら……このメイドのビビしかいない。
暗闇の中、ビビの足取りに迷いはない。毎日のように通いなれた道のようだった。
それでも五分も歩かなかっただろう。彼女の目的地は、庭園の隅にある小さな建物だった。
扉の前で足を止め、あたりを見渡すビビ。俺が気配を殺していると
……ここは、納屋だろうか。馬を四頭納められるくらいの小屋である。石材と木を組み合わせた頑丈そうな造りで、二階建てでくらいの高さはある。
もしかしてここが、公爵の言っていた、ヤンが最近寝泊まりしているという場所か?
メイドが入って行ったということは、ヤンが帰って来ている――いや、ビビが開けるまで、この扉には横木で閂止めがされていて、内側から開かないよう封じられていた。中に人がいるわけがない。二階の窓に明かりは無いし、やはりヤンは留守なのだろう。
だったらどうして、ビビはここへ……?
いっそ突入してしまい衝動と戦いながら、俺はその場でメイドの帰りを待ち続けた。
ビビが再び姿を現したのは、数分も経たないうちだった。服装などに変化は無い。だが、さっきまで持っていたはずの籠鞄が無くなっていた。
……やはり、この建物の中に誰かが居る。彼女はその人間に、何かを届けるためここに立ち寄ったのだ。
ビビは再び扉に閂をはめると、庭園を縦断し、今度こそ敷地から出て、街へと下っていく。どうやら今度こそ帰宅するらしい。
……俺はしばらく、自分の行先を迷って――納屋のほうへ向かった。
横木の閂をなるべく音を立てないよう注意して外し、そうっと、中に入る。
やはり納屋だ。元は農具入れか何かだったのだろう、一階は何もないだだっ広い空間だった。天井が高い。
奥の壁には、大きなハシゴが立てかけてあった。その場で見上げると、天井――二階の床部分に、四角い穴が開いている。
そこはどうやら、二階というより屋根裏部屋であるらしかった。
――明かりは無い。だが、人の気配がする。
俺は意を決して、ハシゴを天井の穴に引っかけた。何度か手でゆすってしっかり固定されているのを確認してから、足を乗せる――。
木製のハシゴがギシッと鳴った。
その直後、天井の穴から声が飛んできた。
「――誰ですっ⁉」
――オラクル語。いかにも怯え、緊張した……女の声だ。
俺は返事をせず、ハシゴを上った。
階段を上った先は、牢屋であった。
そうとしか言えない。木製だが頑丈そうな板が床から天井まで張られており、人が抜けられそうな小さな扉には、鉄の錠がぶら下がっていた。
……閂と違い、これは鍵が無ければ開くことはできない。俺に開錠の技術でもあれば別だが、国一番の貿易商も、このスキルは習得していなかった。
さてどうしたものか――と眺めていると、牢の中の女が、再び悲鳴じみた声を上げた。
「あ、あなたは? ここに何しに来たの⁉」
俺はカタコト程度にしかオラクル語を聞き取れないが、語調から、女が酷く怯えているのが読み取れた。
年は三十代半ばくらいか。強い癖のある赤毛と緑の目をした女だった。着飾ればさぞ華やかな美人であったろう、整った目鼻立ちをしていたが、化粧っ気が欠片も無い。肌も服も汚れて、何日もまともに湯あみしていないのが分かる。
彼女は俺から少しでも距離を取ろうとしたのか、牢の奥に張り付くようにして、背中を丸めていた。
……いや、違う。腕の中に子どもを抱いていた。こちらは十に満たないほどの幼児で、性別までは分からない。だがやはり酷く汚れ、そしてどちらも痩せていた。
牢の中には藁を重ねただけのベッドと、便所らしい壺、そして先ほどビビが持っていた籠鞄が置かれていた。被さっていた布が取られ、少し先端を齧られたパンが載っている。これがこの母子の一日の食事――ということだろう。
……言葉が出なかった。
いきなり現れ、無言で佇む異国の男に、囚われの母子はさぞ戦慄したことだろう。お互いを抱きしめ、震えていた。
……多くを聞く必要も、語る必要もあるまい。
俺は頭の中で、どうにか知っているオラクル語を組み上げて……母子に短い質問をなげかけた。
「――ハドウェルの家族?」
母子はまだ震えている。だが次に俺が言った言葉で、二人ともが顔を上げてくれた。
「助けに来たぞ」
――と。
エイダ・デッケンと、ダニエル・デッケン。
ハドウェルの妻と子は、もう半年間も囚われの身であるという。
正確には囚われたのが半年前、この部屋に運び込まれたのが三か月前。一年で最も凍てつく季節を、まるまるこの牢で過ごした。
理由は分からない。誰が自分達をとらえたのかもよくわからない。
ただ自宅でくつろいでいたところを突然攫われて、あちこちに連れ回された。夫と連絡を取ることはもちろん、誘拐犯や見張りの者以外とは会話する機会も無かったらしい。
母と子の手足には、粗悪な枷が着けられたのだろう、酷い傷跡があった。
「……そうか……」
俺は胸が悪くなる思いがした。
世界中を旅してきて、こういう光景は何度か見てきた。
痩せ枯れた体で、劣悪な環境に居る人間は、貧しい国にも豊かな国にも必ずいる。だがこの二人が居る場所は、貧しい家というにも劣悪すぎた。まるで――いや例えでもなんでもなく、ここは牢獄だ。
ハドウェルの妻子は監禁されていた。ヤン・ダッチマンの家に。
俺は檻を掴んで彼女に問うた。
「ここは、しばらくは安全なのか?」
聞くまでも無いことだが、念のために確認をする。俺の問いの意図を察したのか、彼女はコクコクと激しく頷いた。
……よし。ひとまず命に別条がないのは確認できた。あと何日もそのままにはしておけないが、一晩を急いて無理やり二人を連れ出すよりも、保護できる環境が整うまではここに居てもらったほうが良い。
なにせヤンはもちろんのこと、あのダッチマン公爵だって完全に信用していいか分からないのだ。下手に騒がず知らんふりをしながら、ビビやダッチマン公爵にも気付かれないようにそっと二人を救出しよう。
……まず港町のルイフォンに連絡を取り、合流しよう。あいつに任せれば彼女らの安全は確保できる。マリーも安全な所に退避してもらって、それからまた島に戻り、ダッチマン公爵邸でヤンの帰りを待ち伏せる。
あるいはビビを締め上げれば、なにか情報が出てくるか?
いずれにせよ、そんなに長い時間をかけるわけにはいかない。牢獄の中、彼女らの身体はとりあえず安全であろうとも、心のほうが、そんなに長持ちするとは思えない……。
「少しだけ待っていてくれ。必ず助けてやるからな」
檻越しにそう囁くと、ハドウェルの妻はしっかりと深く頷いた。
……うん、強い女性だ。体は痩せて汚れても、目に光は失っていない。知的で前向きで、気丈な女性だった。
俺はふと、もしかすると彼女なりの考え、ここから脱出する作戦があったのではないかと思いついた。もし何か考えがあるなら聞いてみたい。
俺は身を屈め、エイダ・デッケンに問いかけた。
「何か俺に言いたいこと、聞きたいことはあるか?」
「ハドウェルは無事?」
エイダ・デッケンは一瞬の間もおかずに答えた。ずっとそれが聞きたくて我慢をし続けていたのだろう。俺はいよいよ返す言葉を失って、ただ強く、鉄の錠を握り締めた。




