王太子は鉄錆色の恋をする➀
わたしのような田舎の貧乏男爵の次女にとって、王太子ライオネルという男は、あまりにも遠い存在だった。
彼の肖像画は、シャデラン領の小さな商店には売られていなかった。領を出たことも無いわたしは、十八を超えてもその顔すら知らないまま。ひと悶着があった今ですら、『キュロス様の親友の兄』あるいは『アナスタジアお姉様の夫の兄』という印象のままである。
それも、『――だった人』に変わりつつある。わたしとは会話らしい会話をしたこともなく、憎しみすらも無い……縁もゆかりもない赤の他人――そんな認識でいた。下級貴族と王族とはそれくらいの距離感があるものだ。
でもこれは、わたしが例外なだけ。ディルツ国民、特に王都で暮らす人々にとって、王太子ライオネルの知名度は絶大なものだった。親しみではなく畏敬、現人神のように彼は崇め奉られていた。
それでもやはり、ライオネルはあくまで王太子――『次期国王』に過ぎなかった。
現在のディルツ王は、ロイ陛下。最愛の妻を亡くしたあと気落ちのあまり半隠居してしまったとはいえ、国民人気の高い王だった。ロイ陛下の心身が回復するまでの間の代理、いわば『つなぎ』という立場しか、王太子には期待されていなかったのだ。
それに第三王子、ルイフォン様の知名度がとても高かった。
騎士団は、もともとは軍兵の一種であったけれど、和平が成った近年は、街を護る警備隊であり、困った時には親身になってくれる存在だ。その騎士団長であるルイフォン様、肩書ばかりではなく真実、剣の達人という頼もしさに加え、あの容姿はたいへんに人目を引く。シャデラン領で王太子の顔を知らなかったわたしでも、ルイフォン・サンダルキア・ディルツという、世界一美しい王子様の名はよく知っていた。彼の顔は、文字通り売れていたのだ――肖像画とか彫刻とか、何かしらの商品になって売買されていたのである。
どんな気分なんだろう、自分の絵姿が赤の他人に売買されるというのは……と、一度、本人に聞いてみたことがある。すると彼は、なんだかものすごく嫌そうな顔をした。
王太子ライオネルも、さすがルイフォン様の血縁者、端正な容姿をしていた……と思う。
けれど彼の場合、美男子というよりも偉丈夫という印象が勝つ。婦女子よりも男性に人気がありそうな、そんな面差しをしていた。
どんな気分なんだろう、自分の絵姿が異性より同性に好まれて売買されるというのは……と、キュロス様の前で呟いてみると、彼はなんだかものすごく嫌そうな顔をした。
そんなライオネルが、いつ、なぜイルダーナフの名を戴いたのか、誰も知らない。
実父である国王陛下ですら「いつのまにか、なぜか」というのだから、本当に誰一人として知らないだろう。
ハドウェルに託された地図が示していたのが『イルダーナフ島』だと聞いた時、わたしはその地を、フラリアやスフェインの首都にも劣らぬ大都会だろうと想像していた。そうでなければあのライオネルが、自身の名に戴いてまで縁をつなぐメリットが無いと思えたから。
だから、島に船を着けてみてとても驚いた。あんなに和やかで賑やかな、商売人の街だったなんて、本当に意外だったの。
ライオネルはなぜこの島を欲しがったのだろう。そしてなぜ、ダッチマン公爵はディルツの王太子を受け入れたのだろう。
その答えを、今、ダッチマン公爵――ライオネルの『義父』となる予定だった老紳士が、ぼそぼそと語り始めた。
「このダッチマン家は、王族の傍系ではありますが、兄弟の出がらしみたいな家系でしてね……。公爵というのは名ばかりの、だだっ広いだけで何の特産品も無い、貧しい土地を押し付けられた貧乏領主でした」
「……なんとなく、グラナド家と似ていますね。うちも王族の傍系で辺境の領主となり、やがて公爵になったので」
キュロス様が相槌を挟む。
ダッチマン公爵は小さく苦笑してから、言葉を続けた。
「何をおっしゃる。グラナド家とは比べ物になりませんよ。……それでも領地を持ったからには、世継ぎを作り、この地を守っていかねばならない。――しかし私ら夫婦に生まれたのは二人だけ、どちらも女の子で、そして次女は、醜かった」
先ほど、甘いお菓子や高級な調度品のことを熱く語っていた時から、十ほど老けたように見える。
「親の目から見ても、娘の顔は、歪としか言いようがなかった。なんとか婿を迎えようと社交界に連れ出したが、男達はみな顔を逸らした。姉のほうは美しく生まれていたのがまた良くなかった。同じ公爵令嬢ならば姉のほうと婚姻したいと、誰もが言う。妹が主役の誕生日パーティーで、姉は持てはやされ、妹は道端の襤褸屑のような扱いだったよ」
……。わたしは無言のまま一度だけ目を閉じ、その娘を悼んだ。
「私は必死で次女の婿になってくれる男を探した。長女はシャイナの王族に見初められ、嫁入りが決まってしまったからな。しかしどうにもならなかった――娘が二十五歳になった時には、何もかも諦めた。養子を取るか、いっそ私の代で公爵家を終え、領地は国に返上しようかと……」
――公爵がそんな絶望の中にいた、ある日のことだった。
相変わらず壁の華となっていた娘の前に、バラの花が一本、そっと捧げられた。
驚き、信じられないと見開いた目の前には、少年が跪いていた。鈍く輝く銀の髪に凛々しい面差し、だがその年齢はまだ十にも満たぬ頃。
娘の手を、それよりも小さな手のひらで包み、少年は迷いなく伝えた。
「私と結婚してください、姫君」
――それが、ライオネル・ディルツ。隣国ディルツから留学に来ていた、幼き王太子であった。




