第17話
闇商人と《疾風の爪》による取引が滞りなく行われた、その夜――フェン・レラートは、王都の一角にある小さな店の前にいた。白い体毛に長い耳、赤い瞳をした兎の獣人の男である。
こんこん、と扉を軽く叩くと、内側から鍵が外れる音がして、薄く開かれた扉から白い顔が覗いた。
二十代後半程の、緩く波打つクリーム色の髪をした女性だ。顔の左側を包帯で覆われている。フェンの姿を認めると、垂れ目がちの瞳を丸くした。
「あら? あなた……」
「すみません。お休みでしたか?」
「ちょうど眠ろうとしていたところだわ。どうしたのかしら? こんな夜更けに」
「王都を離れることにします。それを伝えに」
「そのためにわざわざ来てくれたの?」
「最後に、あなたと話をしたかったので」
フェンの表情を見て何かを察したのか、女性は「どうぞ、中に」と店に彼を招き入れる。
「使った、ということかしら? あれを?」
単刀直入の質問に、フェンは頷く。これまで《疾風の爪》とは良い取引が出来たが、もう終わりだ。
そう、このフェン・レラートこそが《疾風の爪》と繋がっていた闇商人の正体だった。
そして女性の方はヴィオラといい、王都にこじんまりとした店を構える薬師だ。
表向きは傷薬や鎮静剤、感染症予防の薬などを売っているが、それだけでは生活に困り、いつしか毒物までも取り扱うようになった。
ここで売られている薬はすべて彼女が調合していて、その効能には目を瞠るものがある。それでも暮らしが立ち居かなくなるのは、実に世知辛いとしかいいようがない。
ヴィオラは《疾風の爪》に恨みを抱いていた。顔の包帯は、彼らに暴行を受けたときの傷痕を隠すものだという。医者によると痕は一生残るらしい。ヴィオラが憎むのも然るべきだろう。
『毒を盛るだけでは足りないわ。やつらをただのケダモノに堕とす......それがワタシの復讐よ』
そうしてヴィオラが自ら調合したのが、服用者の理性を蝕み凶暴化させる薬だった。
だが人間である彼女には、薬を飲ませる機会はない。フェンの協力が不可欠だった。
もともとフェンは人間への差別意識はない。幼い頃に湖で溺れかけたとき、人間に助けられた恩がある。むしろ同族より特別な感情を抱いているといっていい。
更にフェンは、ヴィオラという人間の女性に惹かれている自分を意識していた。
取引相手と想いを寄せる女性――どちらか選ばなければならない。商人として築いた信頼関係か、個人的な恋愛感情か。
最終的にフェンは、己自身の気持ちを優先した。ヴィオラに手を貸すことに決めた。
頭領であるコルヴァスの『人殺しは禁じる』というルールに、団員たちも不満を持っているのは分かっていた。誰も口に出さなくても、彼らのふとした表情や雰囲気から読み取ることはできる。
『今の頭領のままでは、《疾風の爪》も内部崩壊を免れない』――そう危機感を植え付けることができればいい。
取引後、見送りにきた頭領の右腕——ギランという豹の獣人を上手いこと唆すつもりでいた。だがあちらからこっそりと毒物を要求してきたので、手間が省けた。
そして毒物と偽り、『凶暴化の薬』をギランに売った。薬を飲まされたコルヴァスは理性のないケダモノと化し、団員たちを血祭りに上げることだろう。ただでさえ突出した戦闘力を誇るコルヴァスである。暴れ出したら誰にも手が付けられないはずだ。
結果を見届けたいのはやまやまだが、事が発覚すれば王都への出入りが制限されるだろうことは想像に難くない。なので夜明け前にここを離れる必要があった。
「――ありがとう」
ヴィオラは近寄り、フェンの顔を両手で挟む。
「……っ?」
フェンの驚く声を封じるように、ふいに唇が押し付けられた。いきなりのことに思考が停止する。甘い匂いと、唾液の味が口内に広がっていく。
「これは、ほんのお礼よ」
やがて唇を離したヴィオラは、艶然と微笑んでみせた。
「また、いつか会えるかしら?」
「会いに来ますよ。必ず」
「約束よ? 待っているわ、ずっと」
力強く、フェンは頷いた。名残惜しさを感じつつも、踵を返す。
これは、一時の別れに過ぎない。次に会うとき、彼女は更に魅力的な女性になっているに違いない。自分は、そんな彼女に相応しい男になるのだ――今より、もっと。
そんなビジョンを思い描きながら、扉に手を伸ばす。
「…………?」
手が、宙をかく。目測を誤ったのか? そんなことが?
「え……?」
視界がぐらぐらと揺れる。動悸が激しくなり、汗が噴き出す。
もはや立っていられず、膝をつく。呼吸が苦しい。
明らかにおかしい。この体に、何が起きているのか?
「……ああもう臭いわ。獣臭くて嫌になっちゃう」
ヴィオラの声――見上げると、口元を手の甲でごしごしと拭っている。
それから彼女は、おもむろに顔の包帯を解く――傷痕など、どこにもない。
自分は騙されたのだ、とフェンは気付く。
「あなたにはね、毒を飲ませたの……ワタシの唾液に含まれた毒を、ね」
さきほどの口づけだ。彼女の唾液を嚥下したのは確かだが――。
「ワタシの体は、普通の人とは違うの。色々あって、大抵の毒には耐性があるわ」
吐き気が込み上げ、嘔吐した。ヴィオラが後退る。
「あら、ワタシの靴を汚さないでちょうだいね? この靴、とても気に入ってるの」
なぜこんなことを――そう問おうにも、呻き声ばかりで言葉にならない。それでも何を訴えたいのか伝わったのか、
「どうして自分が殺されるのかって聞きたいのかしら? 簡単な話だわ。あなたさえいなくなれば、ワタシとの関係は誰にも知られずに済むから。あいにくワタシはあなたのこと、爪の先ほども信用していないの」
頬に床の感触。起き上がる力は、もう残っていない。霞みがかる視界に、ヴィオラの姿が映る。
「だから、ね……さようなら。来世があれば、今度は人間に生まれたらいいわ」
そんな彼女の瑠璃色の瞳が妖しく輝いている様が、フェン・レラートのこの世で見た最期の光景だった。




