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彼女に名前はない。赤ん坊の頃に山賊もどきの傭兵団に拾われて様々な事を仕込まれて育った。名前は付けられなかった。いつだって「おい」とか「雌ガキ」とかそんな風に呼ばれていた。
自分を虐げ続けてきた傭兵団を潰したのは14歳くらいの頃だが、本当の年齢はよくわからない。誕生日も知るはずがない。
それからは流れに流れてただ生きてきた。特に誰かと交わることもせず、あの邪法使いのような面倒臭そうな相手は避けた。
目的も希望もない、生きるだけの日々。
それが変わったのはウィルに会った瞬間だ。
彼を見た瞬間に怒涛のように流れ込んだ記憶達。前世の友人や家族。顔も名前も思い出せないが、愛されていたと思った。具体的には思い出せないけれど、優しくて幸せな記憶があったはずだ。
感情を知った。否、思い出した。
嬉しいとか悲しいとか愛しいとかムカつくとか、それがどんどん胸の内から湧き上がった。
これまで全く理解出来なかった人を愛すること、信じるということがどういうものか突然に理解出来たのだ。
あ、ここ漫画の中じゃん。
あたしモブだったんだ。
そうか。あたしは彼に会うために、この漫画の世界を見守って萌え萌えするために生まれてきたんだ。
神様ありがとう。
自然とそう思って、嬉しくて嬉しくて有頂天になった。幸せを感じた。モブ道を邁進するぞと固く心に誓ったのだ。
それが間違いであるならば、彼女の生きる意味はなんだろう。
生まれた理由は、心も体も踏みにじられ搾取されてきた理由は。
「あたしは、ただのモブなの」
名前さえも貰えない脇役だ。それでいい、それがいい。
青褪めた顔で首を振る彼女の向こうで、爆音が上がった。
驚いて全員で振り向けば、もうもうと立ち込める砂煙の中、ボロボロの姿でそれでもしっかりと立つウィルの姿がある。彼から感じる魔力は今までと比較にならないほど強く、薙ぎ倒された木々のどこを見ても戦っていた邪法使いの姿は見あたらない。
彼の体に流れる古のなんたらが目覚めたのだ。
頬を流れる血を拳で拭って、想い人を守り抜いた男の強い視線が彼女を射抜く。蒼い瞳が真っ直ぐに彼女を、彼女だけを見て開かれた口から深い美声が漏れた。
「――ワンダ」
「あ。違いますわ、それ」
「ぷぷぷなのです。レディさん、嘘のお名前を教えてたんですぅ」
美少女と美少女もどきが顔の前で違う違うと手を振る。
真剣な空気を断ち切る様にあっさりと真実を暴露され漂う微妙な空気。言葉の意味を理解して目を剥いた将来の英雄が口をパクパクとさせた後、その場に膝から崩れ落ちた。
「うん。これはショックだよな」
「命がけで戦ったあとですものね」
「あはははは。無駄な戦いでしたぁ。カッコつけて戦ったのに恥ずかしいですぅ」
「……うるさい!外野黙れ!」
やっと名前がわかったと思ったのに、ていうか今の絶対感動で抱き合うような流れだろ、気持ちが通じるようなあれだよな、何だよ何なんだよこれ、なんて膝を抱えてぶつぶつ呟く男に先ほどまでの凛々しさはない。
ずどーんと背負った重い空気が目に見えるようで、憐みの視線を送った後全員の白い目が彼女に向けられた。
「あっあたしぃ?!」
「これはお前が悪い」
「これだけ頑張ったのにご褒美の一つもないなんてないですわ」
「いくらヘタレでもさすがにかわいそーなのです」
可愛い声で笑った獣人少年が抱き着いていた彼女から離れ、ウィルに向かってそっと背中を押した。戸惑って仲間たちを見るが、三者三様の表情で、それでも座り込んだ騎士の傍に行くことを目線で強要するから仕方なく彼との距離を詰める。
一体なんでどうしてこうなった。
自分が悪いわけじゃないだろうと納得いかない気持ちを抱えながらも彼まで数歩の位置に立ち止まり、えへ、と愛想笑いを浮かべて声を掛けてみる。
「えーっと、えーっと。……ウィル?えと、ごめんね?」
「……………」
膝の間から顔を上げ、眉間に深い皺を刻んだ騎士が暫し無言で彼女を見上げ、それから深い深い溜息を吐いた。乱れた土だらけの髪をガシガシと乱暴に掻き上げてゆっくりと立ち上がる。仏頂面はまあ仕方ない。
「……別に、お前が悪いわけじゃない。俺の方こそ確認もせず焦り過ぎた」
「そうよね!そうだよね?!あたし悪くないよね?!」
「…………」
「あ、ごめん。そんな睨まないで。いやでもさ、ほら、ね?」
あはははと笑う彼女にもう一度深い溜息を吐いて、どうしてお前なんだろうなと吐き出された声は酷く重い。
「ウィル?」
「本当に、なんでお前なのか全くわからん。……でも、だけど」
見上げる位置にある騎士の顔はいつ見ても綺麗だ。
蒼く真っ直ぐな視線には僅かに熱が籠り、自分だけに注がれる視線に眩暈がしそうになる。
この顔を知っている気がした。
いつだろう。どこでだろう。
漫画の中で、どこか、重要なページだ。すごく感動的なシーンだったはず。1ページ丸々使ってドアップで彼が何か告げるのだ。女の子が色めき立つすごく大切な何かを。
「お前の名前を呼びたかったけど、もういい。名前なんかどうでもいいんだ」
ものすごい勢いで記憶を攫う彼女に向かいウィルがそっと手を伸ばした。片手が彼女の手を握り、反対の手が背中に回される。
軽く引き寄せられて二人の距離が近づいて、ようやく彼女の頭の中でこのシーンを思い出すことが出来た。
これはあれだ。魔竜を倒した後。自分がシュナザルだと知ったローザに向かい彼が言うのだ。
青い肌を厭い逃げようとしたお姫様を捕まえ、引き寄せて、こんな風に目を覗き込みながら。
「……お前が何者でも構わない。俺は、お前をあい―」
「言わせねえよ?!」
無意識だ。聞きたくなかっただけだ。
鍛え上げた女傭兵が反射的に繰り出した拳は満身創痍の騎士の脇腹を的確に抉り、無様な声を漏らしながら崩れ落ちた男に周囲から驚愕、歓声、非難の声がそれぞれ飛んだ。
ちなみに「ウィルッ?!」と驚いたのがマーカスだ。いい奴だなあ、マーカス、といっぱいいっぱいの頭の端でどこか冷静に思う。
そんな彼女はいっぱいいっぱいのまま、肩で息をして仁王立ちをし、大きな声で言い放った。
「っ……あたしはっ!ただのモブなのっ!!」
認める気なんてさらさらない。
関係なんて変えたくない。モブのままでいい。それがいいのだ。
本当に、何がどうしてこうなった。




