第9話 それでも、私は立つ
健人が先に動いた。
踏み込んできた体勢は明らかに美咲より大きく、その一歩だけで地面が揺れたように感じられるほどの圧力をまとっていた。
次の瞬間、健人の拳が振り下ろされる。
美咲はとっさに腕を上げて防いだが、鈍い衝撃が肘から肩まで一気に走り、その勢いに身体が大きくぐらついた。
「っ……!」
体勢を立て直す間もなく、次の一撃が脇腹へ飛んでくる。
ドッ!!
息が詰まり、美咲の身体が大きくのけぞった。
肺の中の空気が一気に押し出され、足が思うように動かないまま、身体が後ろへ下がっていく。
それでも健人は止まらなかった。
美咲が苦しそうに息を整えようとしている姿を、まるで自分の勝利を確かめるかのような余裕のある目で見下ろしながら、さらに一歩、距離を詰めてくる。
「弱いな」
その声には、確信があった。
「お前じゃ俺には勝てない」
健人の拳が再び振り抜かれ、美咲の肩を捉える。
そのまま押し倒すように力を加えられ、美咲の膝が地面へ落ちた。
土の感触が手のひらに広がり、身体を支えようとした指先にまで痛みが走る。
赤いカーディガンの裾が土にまみれ、袖口にも小さな裂け目ができていた。
「女のくせに、俺に勝てると思ってたのか?」
健人の声は、笑っているようだった。
美咲は歯を食いしばり、何とか上体を起こそうとするが、腕は痺れ、息もうまく吸えず、身体全体が鉛のように重く感じられる。
それでも、美咲は拳を握り直した。
「……まだ」
「まだ、何だよ」
健人が近づいてくる。
美咲は残った力を振り絞って拳を振り上げたが、その腕はあまりにも簡単に健人の手に掴まれた。
健人は掴んだ腕を捻るように力を込め、美咲の顔が苦痛に歪む。
「妹を守るとか言って、結局これかよ」
健人は美咲を乱暴に押しやると、一歩下がり、その目に隠そうともしない侮蔑を浮かべた。
「女は、結局こういうもんだ」
その言葉が、美咲の胸に突き刺さった。
美咲は地面に手をついたまま荒い息を吐き、土で汚れた袖を見つめる。
髪が頬に張りつき、視界もぼやけていたが、それでも健人の姿だけははっきりと見えていた。
悔しかった。
身体が思うように動かないことよりも、妹の前でこんな姿を晒していることが悔しくて、奥歯が痛くなるほど強く噛みしめる。
「……うるさい」
掠れた声だった。
それでも、美咲は顔を上げた。
弱々しく聞こえる声とは裏腹に、その目だけはまだ死んでいない。
健人はそんな美咲を見て鼻で笑い、さらにゆっくりと近づいてくる。
「まだ立ち上がる気か?」
美咲は答えなかった。
膝に力を込める。
身体が言うことを聞かない。
一度、手をついた。
それでも諦めず、もう一度だけ力を込める。
震える腕で身体を支え、膝を立て、何とか上体を起こしていく。
その姿を見て、健人の笑みが深くなった。
「いいぜ、もっとやってみろ」
健人は楽しむように拳を握り直す。
「女が俺に勝てるところ、見せてみろよ」
美咲の拳が小さく震えていた。
痛みと息切れ、それでも消えることのない怒りが胸の中で絡み合い、今にも折れてしまいそうな身体の奥で、ただ一つだけ強く残っているものがあった。
負けたくない。
陽菜を守りたい。
その思いだけは、どれだけ殴られても消えなかった。
陽菜は後ろでその光景を見つめていた。
姉の身体は傷つき、服は土で汚れ、今にも倒れてしまいそうなのに、それでも自分の前から退こうとしない。
あまりにも無残な姿に、声を出そうとしても喉が震えるだけで、言葉が出てこなかった。
「お姉ちゃん……」
ようやく漏れた声は、涙に濡れていた。
美咲はその声を聞いた。
そして、ほんの一瞬だけ陽菜の方へ視線を向ける。
そこにいる妹の姿を見た瞬間、震えていた拳がゆっくりと強く握られた。
健人は美咲を見下ろしたまま、ゆっくりと拳を握り直す。
「そろそろ、終わりにしてやるよ」
低い声が夜の空気に響いた。
美咲はその言葉を聞きながら、もう一度だけ拳に力を込める。
身体は限界だった。
足も震えている。
腕にも力が入らない。
それでも、美咲は立ち上がった。
「……まだ」
今度の声には、先ほどまでの弱さがなかった。
美咲はゆっくりと顔を上げ、健人をまっすぐに見つめる。
「まだ、終わってない」
健人の目が細くなる。
その瞬間、美咲の背後から陽菜の声が響いた。
「お姉ちゃん、負けないで……!」
美咲はその声を聞いて、もう一度拳を握り直した。
まだ、倒れるわけにはいかない。
妹の前で、ここで終わるわけにはいかなかった。




