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第7話 もう、逃げない

約束の時間まで、あと一時間。


赤いカーディガンを羽織り、鏡の前に立つ私。


そこに映っているのは、いつもの自分だった。


けれど、もう以前の自分ではない。


健人と付き合っていた頃なら、こんな時に一人で会いに行くなんて考えもしなかった。


怖かった。


本当は、今だって怖い。


それでも行く。 陽菜を守るために。


美咲はスマホを手に取った。


健人からの最後のメッセージを確認する。


『九時だな。待ってる』


画面を閉じる。


そのとき、部屋の外から小さな声がした。


「……姉ちゃん」


美咲が振り返る。


ドアの隙間から、陽菜が顔を覗かせていた。


「どうしたの?」


「今から……健人さんに会いに行くんでしょ」


美咲は一瞬、答えなかった。


「……聞こえてた?」


「うん」


陽菜は俯いた。


「私も行く」


「ダメ」


美咲は即答した。


「危ないから。陽菜は家にいて」


「でも……」


「絶対にダメ」


強い口調になってしまった。


陽菜の肩が小さく揺れる。


美咲はすぐに表情を緩めた。


「ごめん。怒ってるわけじゃない」


「……分かってる」


陽菜は少し黙ってから、ゆっくり顔を上げた。


「でも、姉ちゃん一人で行かせる方が怖い」


その言葉に、美咲の胸が詰まった。


陽菜の目には、まだ恐怖が残っている。


それでも、その奥には姉を心配する気持ちがあった。


「健人さん、姉ちゃんにも何かするかもしれない」


「……」


「私のせいで、姉ちゃんまで傷ついたら嫌だよ」


美咲は陽菜の前まで歩いた。


そして、そっと頭に手を置いた。


「陽菜のせいじゃないよ」


「でも……」


「全部、あいつがやったこと」


美咲の声は静かだった。


「陽菜は何も悪くない」


陽菜の目に、涙が浮かぶ。


美咲はその涙を指で拭った。


「だからこそ、私が終わらせる」


「……姉ちゃん」


「もう、逃げない」


その言葉を口にした瞬間、美咲自身がその意味を噛みしめていた。


これまでなら、怖くなって逃げていた。


健人の機嫌を気にして、怒らせないようにして、自分が我慢すればいいと思っていた。


でも、もう違う。


守るものができた。


美咲は玄関へ向かった。


靴を履き、立ち上がる。


その背後で、陽菜が言った。


「……私も行く」


美咲は振り返った。


「陽菜」


「近くにいるだけでいい。姉ちゃんが一人じゃないって分かるように」


美咲はしばらく、陽菜の顔を見つめた。


すぐに答えられなかった。


連れて行くリスクと、一人で行かせることへの不安が、胸の中でぶつかる。


「……本当に、近くにいるだけでいいの?」


「うん。絶対に前に出ない」


美咲は小さく息を吐いた。


「分かった。ただし、私から一歩も離れないこと」


「うん」


陽菜は力強く頷いた。


二人は並んで家を出た。


夜の空気は冷たかった。 街灯の下を歩きながら、美咲は何度も前を見た。


公園までは、歩いて十分ほど。


いつもなら何でもない距離だった。


けれど今夜は、その道が妙に長く感じられた。


隣を歩く陽菜の手が震えている。


美咲は何も言わず、その手を握った。


陽菜も握り返してくる。


小さな手だった。


その温度を感じた瞬間、美咲の中にあった恐怖が少しだけ薄れた。


公園の入り口が見えてきた。


街灯の向こう。


暗い木々の間に、ベンチが並んでいる。


美咲は足を止めた。


「……いる」


公園の奥、一番端のベンチの近くに、一人の男が立っていた。


両手をポケットに突っ込み、こちらを向いている。


街灯の光が、彼の顔の半分だけを照らしていた。


健人だった。


こちらに気づいたのか、ゆっくりと顔を上げる。


その表情は、まだ余裕を残しているように見えた。


美咲は陽菜の手を強く握った。 健人の姿を見つめながら、静かに息を吐く。


もう、戻れない。


今夜、全部終わらせる。


美咲は一歩、前へ踏み出した。


その赤いカーディガンが、夜の闇の中で静かに揺れた。

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