第2話 小さな亀裂
最初の違和感は、小さなものだった。
映画を三人で見に行った翌日、健人から美咲にメッセージが来た。
「陽菜、結構積極的だよな。俺のこと、まだ『健人さん』って呼ぶの、ちょっと照れる」
文面自体は軽い冗談めいていた。
けれど美咲は、その言葉のどこかに引っかかるものを感じた。
陽菜はただの妹だ。
彼氏の友人として自然に接しているだけなのに、「積極的」という言葉が、妙に引っ掛かった。
美咲は画面を見たまま、しばらく返信を打たなかった。
最終的に「そう? 陽菜はああいう性格だから」とだけ返して、スマホを伏せた。
そのときは「考えすぎだ」と自分に言い聞かせた。
それから二週間後。
健人が美咲の部屋に泊まった翌朝、陽菜が学校に行く準備をしながらリビングを横切った。
短いスカートに白いソックス。
いつもの高校生の姿だ。
健人の視線が、一瞬だけ陽菜の脚に落ちた。
すぐに逸らされたが、美咲は見逃さなかった。
「何見てたの」
「ん? 何も」
健人はあっけらかんと笑った。
その笑顔が、以前より少し上手くなっていた。
美咲はスプーンを持つ手を止め、彼の横顔を見た。
見られたこと自体より、「すぐに、自然に逸らした」その仕草が、妙に上手かったことが引っかかった。
まるで、見てはいけないものだと最初から分かっていたかのような。
胸の奥が、小さくざわつく。
美咲は黙ってコーヒーを飲み干した。
その日の夜、美咲は健人に聞いた。
「最近、陽菜のこと、よく見てない?」
「はあ? 何言ってんだよ。家族みたいなもんだろ、あいつ」
「家族みたいに、か」
健人は少し不機嫌そうに肩をすくめた。
美咲はそれ以上追及しなかった。
追及すれば、自分が「疑り深い女」になる気がしたからだ。
しかし、小さな引っかかりは、日を追うごとに形を変えていった。
健人が美咲との約束をすっぽかすことが増えた。
理由はいつも「急な仕事」か「体調が悪い」
代わりに、陽菜の話題を持ち出す頻度が上がっていた。
「陽菜、最近勉強頑張ってるらしいな」
「あいつ、意外と几帳面だよな」
「この前駅で見かけてさ。一人で歩いてた」
美咲が「最近、陽菜のことばかり気にしてない?」と指摘すると、健人はすぐに顔色を変えた。
「疑ってるの? お前の妹を、そんな目で見てるわけないだろ」
言葉は正しい。
正しすぎて、かえって胸に棘が残った。
美咲はそれ以上何も言えなくなり、黙って俯くしかなかった。
ある休日、二人がカフェにいるときも同じだった。
窓の外を高校生のグループが通り過ぎると、健人の視線がわずかに動いた。
美咲がその様子を注視していると、健人はすぐに気づいて笑顔を作る。
「どうした?」
「……なんでもない」
美咲はコーヒーの水面を見つめた。
自分の中で、何かがゆっくりと音を立ててひび割れていくのがわかった。
かつて「この人はちゃんとした人だ」と思っていた確信が、少しずつ薄れていく。
夜、一人で部屋に戻った美咲は、カーテンを閉めたままベッドに座った。
赤いカーディガンを着たまま、膝を抱える。
「考えすぎなんだろうな」
声に出してそう呟いても、胸のざわめきは消えなかった。
陽菜の笑顔や、健人の「すぐに逸らす視線」が、交互に浮かんでくる。
美咲はスマホを手に取り、健人とのメッセージ履歴をスクロールした。
昔は普通にやりとりしていた内容が、今見るとどこか違って見える。
陽菜の名前が出てくる頻度が、確実に増えていた。
美咲は画面を消し、天井を仰いだ。
このままでいいのか。
それとも、もう限界なのか。
答えは、まだ出せずにいた。
ただ、関係の内側に入った小さな亀裂が、音もなく広がり始めていることだけは、はっきりと感じ取っていた。




