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最終話 もう、振り返らない

夜の公園を出たあと、二人はしばらく無言で歩いた。


街灯が途切れ途切れに、二人の姿を照らしていく。


美咲の赤いカーディガンは、土で汚れ、ところどころ裂けていた。


それでも、夜の中では不思議なほど鮮やかだった。


陽菜は、美咲の手を強く握っている。


その指は、まだ少し震えていた。


「……お姉ちゃん」


「ん?」


「……痛くない?」


陽菜は、美咲の肩を見る。


「肩、すごく痛そうだった」


美咲は、少しだけ笑った。


「……大丈夫よ」


本当は痛かった。


肩は重い。


腕もまだ痺れている。


右手を握れば、拳の奥まで痛みが走った。


それでも、美咲は言わなかった。


今は、陽菜に心配をかけたくなかった。


陽菜は俯いたまま、美咲の手をもう一度握り直した。


「……ありがとう」


その声は小さかった。


けれど、美咲にははっきり聞こえた。


美咲は足を止め、陽菜の頭をそっと撫でる。


「もう大丈夫」


「……うん」


「私がいるから」


陽菜は小さく頷いた。


二人は再び歩き始めた。


やがて、見慣れた家が見えてくる。


玄関の明かりをつける。


靴を脱ぐ。


いつもと同じ場所に揃える。


たったそれだけのことなのに、今夜はひどく大切なものに感じられた。


陽菜が振り返る。


「……もう、大丈夫だよね」


美咲は静かに頷いた。


「ええ。もう、あの人は来ない」


陽菜の目から、涙がこぼれた。


けれど、それはもう恐怖の涙ではなかった。


美咲はキッチンへ向かった。


蛇口をひねり、冷たい水で赤く腫れた拳を洗う。


「……痛っ」


思わず、小さく声が漏れた。


鏡を見る。


乱れた髪。


頬についた土。


疲れ切った顔。


そして、傷ついた赤いカーディガン。


美咲は、しばらくその姿を見つめていた。


あの夜。


陽菜の腕に残った指の跡を見た瞬間から、自分は変わった。


怖かった。


傷つけることも。


傷つくことも。


それでも、陽菜を守るためには、優しさだけでは足りなかった。


だから、覚悟を決めた。


嫌われてもいい。


怖がられてもいい。


自分が傷ついてもいい。


あの瞬間だけは、優しい姉であることより、陽菜を守れる人間でいることを選んだ。


美咲は、静かにカーディガンを脱いだ。


土で汚れ、ところどころ裂けている。


それでも、その赤は鮮やかだった。


夜の黒を押し返した赤。


自分の中に眠っていた覚悟を、形にした赤。


美咲はカーディガンを丁寧に畳み、ソファの背にかけた。


「……終わったね」


陽菜が後ろから近づき、美咲の背中にそっと額をつけた。


「お姉ちゃん」


「なに?」


「明日から……普通に戻れるかな」


美咲は、柔らかく笑った。


「普通に戻るんじゃないよ」


「え?」


「明日から、新しく始めればいい」


陽菜は少し黙った。


それから、小さく笑った。


「……うん」


「学校も行って」


「うん」


「ご飯も食べて」


「うん」


「また一緒に笑おう」


「……うん」


その夜。


二人は同じ部屋で眠った。


陽菜は、すぐに静かな寝息を立て始めた。


美咲は天井を見つめながら、しばらく目を閉じていた。


拳には、まだあの感触が残っている。


健人を殴った感触。


肩に走った痛み。


夜の公園。


そして、最後に言った言葉。


「あんたの負けよ」


けれど。


最後に思い浮かんだのは、健人ではなかった。


陽菜の手の温かさだった。


美咲は隣で眠る妹を見る。


穏やかな寝顔。


もう、怯えていない。


その顔を見て、美咲は小さく笑った。


鬼になる必要は、もうない。


守るべきものは、ちゃんと守れた。


あの夜、私は鬼になった。


妹を守るために。


でも――


もう、鬼でいる必要はない。


美咲は、隣で眠る陽菜に小さく呟いた。


「……おやすみ、陽菜」


静かな寝息だけが返ってくる。


美咲は微笑んだ。


そして、ゆっくりと目を閉じた。


窓の向こうは、まだ暗い。


けれど。


夜の黒の向こうから、ほんの少しずつ朝の光が差し始めていた。


もう、振り返らない。


美咲は陽菜とともに、新しい朝を迎える。


妹を守るために鬼になった夜は、もう終わった。


【完】

今回で最終話となります。


ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました。


激しい場面もありましたが、最後に描きたかったのは、

誰かを打ち負かした瞬間ではなく、大切な人と一緒に、もう一度いつもの日常へ帰っていく姿でした。


夜はいつか終わり、朝が来る。


傷ついたとしても、振り返らずに、また前を向いて歩いていける。


そんな想いが、少しでもこの物語から伝わっていたら嬉しいです。


ここまで美咲と陽菜の物語に付き合ってくださった皆さまに、心から感謝しています。


拙い部分も多い作品でしたが、最後まで読んでいただけたことを、とても嬉しく思います。


もしよければ、感想や評価をいただけると、とても励みになります。


最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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