第11話 あんたの負けよ
健人の体勢が崩れた瞬間、美咲は距離を詰めた。
身体は限界に近く、息は激しく乱れている。
肩には重い痛みが残り、足元も決して安定していない。
それでも、美咲は足を止めなかった。
倒れかけた健人の前まで歩み寄る。
「勝負はまだよ。立ちなさい!」
冷たい声だった。
健人が顔を上げる。
そこには、もうさっきまでの余裕はなかった。
残っているのは苛立ちと動揺、そして自分の立場が崩れていくことを認めたくない焦りだけだった。
「てめぇ……女のくせに……」
「まだ女を見下すの?」
美咲は一歩も退かなかった。
息は上がっている。
肩も重い。
足元だって、ふらついている。
それでも、目だけは一度も逸らさなかった。
「何回同じこと言わせるつもり?」
「うるさい……!」
「『女のくせに』が口癖なんだね」
美咲はゆっくりと前へ出た。
いつの間にか、美咲は健人を見下ろす位置に立っていた。
「陽菜を怖がらせたときも」
「私を見下したときも」
「いつも、あんたは『女だから』って片付けてきた」
「知らねぇよ……!」
「知ってる」
美咲の声が、すっと低く落ちた。
「あなたが一番、弱かった」
健人の目が大きく見開かれる。
「力で押さえつけて、言葉で貶して、自分より弱い相手しか相手にできなかった」
「ふざけるな……!」
健人が怒鳴りながら、再び拳を振り上げる。
美咲は完全には避けきれず、腕で受け止めた。
重い衝撃が肩から全身へ走る。歯を食いしばる。
それでも、美咲は倒れなかった。
「ほら」
声は震えていた。
それでも、言葉だけははっきりしていた。
「今のあんた、誰よりみっともない」
「う、るさい……!」
美咲は、健人をまっすぐ見つめた。
「陽菜を傷つけたことも」
「私を見下したことも」
「全部、ここで終わらせる」
美咲は、一歩踏み込み、腰を落とす。
残された力を、すべて右の拳に集める。
「二度と――」
低い声が、夜の公園に響く。
その瞬間、夜風が強く吹き抜けた。
赤いカーディガンの裾が、大きく翻る。
土で汚れた赤が、街灯の光を受けて一瞬だけ鮮やかに浮かび上がった。
美咲は拳をゆっくりと引く。
その目は、健人だけを見据えていた。
ほんの一瞬だけ、胸の奥が痛んだ。
目の前にいるのは、かつて自分が好きだった人だった。
一緒に笑った日もあった。
優しく手を握ってくれたこともあった。
この人を、自分の手で傷つける。
その事実に、ほんの少しだけ迷いが生まれる。
けれど、美咲の脳裏に陽菜の泣き顔が浮かんだ。
怯えた声。
腕に残った指の跡。
そして、あの日の健人の冷たい目。
美咲は、ゆっくりと拳を握り直した。
もう、昔の健人を見ている場合じゃない。
今、目の前にいるのは――
大切な妹を傷つけた男だ。
「妹にも――」
「私にも――」
「近づくなぁぁぁッ!!」
拳が、さらに深く引かれる。
「やめろ……!」
健人が叫ぶ。
その声をかき消すように、美咲は踏み込んだ。
腰を回す。
肩を乗せる。
残された力を、すべて拳に込める。
そして――
右の拳が、一直線に伸びた。
腰から、肩から、すべてを乗せた一撃が、健人の顔面を真正面から捉える。
拳が当たった瞬間、鈍く重い衝撃が腕全体を突き抜けた。
骨が軋むような感触が掌から肘まで一気に走り、視界が一瞬だけ白く揺れた。
歯を食いしばった顎にまで振動が伝わり、肩の古い痛みが鋭く蘇る。
それでも、美咲は拳を押し続けた。
健人の顔が大きく弾かれ、その瞬間、身体が後方へ崩れ、健人の背中が土の上に叩きつけられた。
夜の公園に、短い落下音が響く。
健人は何とか起き上がろうと腕を動かした。
けれど、力が入らない。
地面を掴もうとした指が震え、やがて力なく落ちた。
「……あぁ……」
かすれた声が漏れる。
もう、立ち上がることはできなかった。
美咲は荒い息を吐きながら、その姿を見下ろしていた。
身体は、もう限界だった。
それでも、立っているのは美咲だった。
健人を包んでいた黒い気配が、急速に薄れていく。
見下す目も。
支配する余裕も。
「女は弱い」という思い込みも。
黒は弱まり、崩れ、夜の闇の中へ溶けて消えていった。
残ったのは、土で汚れ、裂けた真っ赤なカーディガンだけだった。
街灯の光を浴びて、その赤が夜の闇を塗り潰すように、はっきりと浮かび上がっていた。
美咲は静かに息を吐いた。
「まだ『女のくせに』って言える?」
健人は答えられなかった。
美咲は一歩だけ近づく。
「言えないなら、もう二度と女を見下すな」
健人の目が揺れる。
美咲は、その目をまっすぐに見つめた。
「女を見下す男が、最後に負けるのよ」
短く、冷たく言い放つ。
健人の目尻から、細い涙がゆっくりと伝い落ちた。
「あんたの負けよ」
美咲は陽菜の方へ振り返る。
そこには、涙を浮かべながら姉を見つめる陽菜がいた。
「……お姉ちゃん」
美咲は何も言わず、陽菜へ手を伸ばした。
陽菜はその手を強く握った。二人の手が重なる。
美咲は一度だけ、自分の袖の赤を見下ろした。
黒を塗り潰したその色が、夜の中で静かに残っている。
美咲はゆっくり陽菜の手を握り直した。
「帰ろう」
陽菜は小さく頷いた。
二人は手をつないだまま、夜の公園を歩き出した。
もう、二人は振り返らなかった。




