第4話 現れたライバル
「相楽くん、今度の数学、教えてもらえない?」
隣のクラスの女子、月島ひまりが陸の席にやってきたのは、それから数日後のことだった。人懐っこい笑顔と物怖じしない性格で、クラスの男子からも人気がある子だった。
「別にいいけど」
陸が気軽に応じると、隣の席で茜がガタッと椅子を鳴らした。
「......何よ、その返事の軽さ」
小声でつぶやく茜に、陸は首をかしげた。
「なんか言った?」
「別に、何も」
ひまりは陸の反応など気にする様子もなく、明るく続けた。
「じゃあ放課後、図書室でいい? ノート持ってくから」
「ああ、いいよ」
あっさりと約束が決まる様子を、茜は横目で見ながら、ずっとシャーペンの尻を机に叩きつけていた。カツ、カツ、という音が、いつもより苛立たしげに響いていた。
その日の放課後、図書室でひまりに数学を教えていると、離れた席で茜が参考書を開いたまま、ちらちらとこちらを見ていることに、陸は途中で気づいた。だが声をかけると気まずくなりそうで、あえて何も言わなかった。
実際のところ、茜がその日図書室にいたのは偶然ではなかった。放課後に陸がひまりと図書室に行くと聞いて、わざわざ委員会の資料を口実に、隣のテーブルに陣取っていたのだ。そのことに、当の陸はまったく気づいていなかった。
参考書のページは、開いたまま一向にめくられなかった。茜はペンを握ったまま、視線だけを何度も陸たちの方へやっていた。ひまりが陸に顔を近づけて説明を求めるたび、茜のペン先がノートに小さな穴を開けかけた。
「桜庭さん、集中できてないね」
同じ図書委員の女子に声をかけられ、茜は慌てて姿勢を正した。
「あ......うん、ちょっと、考え事してて」
「もしかして、あそこ気になってる?」
女子の視線が、陸たちのテーブルへ向く。茜は勢いよく首を振った。
「べ、別に気になってなんかない! 全然!」
その声が思いのほか大きく響き、司書の先生に「静かに」と注意される羽目になった。茜は真っ赤な顔で俯き、それ以上何も言えなくなった。
翌日、廊下ですれ違いざま、ひまりが陸に「今度二人でお昼、どう?」と声をかけた。断る理由もなく頷きかけたその時、後ろから、いつもより強い口調の声が割り込んできた。
「相楽、購買のパン頼まれてたよね」
振り返ると、茜が真剣な顔で立っていた。
「今日は私と約束してるから、無理」
有無を言わさぬ様子で腕を引かれ、陸は屋上へと連れて行かれた。ひまりは呆気に取られた顔で二人を見送っていた。
「な、なんだよ急に」
階段を上りきったところで、陸はようやく口を開いた。
「別に。ただ、あんたがあの子に丸め込まれそうだったから、助けてあげただけ」
そう言う茜の顔は、いつもより赤く、目も合わせようとしなかった。陸は、少しだけ嬉しくなっている自分に気づいて戸惑った。
屋上の柵にもたれかかった茜は、しばらく黙り込んだ後、ぽつりと呟いた。
「別に、月島さんが悪いわけじゃないけど\...\...なんか、あんたが他の子と楽しそうにしてるの見ると、胸のあたりがざわざわする。なんでだろ」
独り言のようなその一言を、陸は聞き逃さなかった。だが、それを指摘する勇気は、まだ持ち合わせていなかった。
「桜庭って、案外分かりやすいよな」
沈黙を破るように、陸が軽い口調で言うと、茜はぎょっとした顔で振り返った。
「な、何が」
「いや、なんでもない」
本当は、指摘したい言葉が喉元まで出かかっていた。だが、まだ確信が持てないまま口にすれば、この不安定な関係が壊れてしまうような気がした。
放課後の空は、少しずつ茜色に染まり始めていた。屋上の柵越しに広がる校庭で、部活動生たちの声が遠く聞こえる。二人はしばらく、その景色をただ黙って眺めていた。
「そろそろ戻ろっか」
先に沈黙を破ったのは茜だった。踵を返して歩き出す背中を、陸は少し遅れて追いかけた。屋上の扉を出る直前、茜が小さく呟いた言葉を、陸の耳はしっかりと拾っていた。
「......ざわざわするの、嫌いじゃないんだけどね」
聞こえなかったふりをするべきか迷ったが、結局、陸は何も言わなかった。ただ、その一言が、その日一日、頭から離れなかった。
その週の終わり、月島ひまりが珍しく一人で陸に声をかけてきた。
「相楽くん、桜庭さんのこと好きなんでしょ」
直球すぎる質問に、陸は言葉を詰まらせた。
「な、何を急に」
「隠さなくていいって。分かりやすいもん、二人とも」
ひまりは肩をすくめながら続けた。
「私、相楽くんのこと、けっこう本気で気になってるよ」
思いがけない告白に、陸は返す言葉が見つからなかった。
「ごめん、俺......」
「まだ謝らないで。私、身を引くって言ってないから。幼馴染だからって最初から勝負が決まってるわけじゃないでしょ」
からりと笑って去っていくひまりの背中を見送りながら、陸は改めて、自分の中の答えがすでに固まっていることを実感していた。
ひまりは、宣言した翌日から遠慮をやめた。
「相楽くん、今日一緒に帰らない?」
隣で茜のシャーペンの芯が折れた。
放課後、ひまりは陸に言った。
「幼馴染って便利な言葉だね。弁当をもらっても、嫉妬されても、昔の約束があっても、全部それで説明できる」
「何が言いたいんだよ」
「今の桜庭さんを好きかどうか、ちゃんと考えた方がいいってこと」
ひまりは笑わなかった。
「私は、今の相楽くんが気になってるから」
帰宅後、茜から『勉強終わった?』とだけメッセージが来た。陸はその短い一文を見て、なぜかひどく嬉しくなった。
放課後、悠人と二人で帰る道すがら、陸はぽつりと本音を漏らした。
「正直、自分の気持ちがまだよく分かんねえんだよな。桜庭のこと、幼馴染として大事なのか、それとも......」
「それとも、恋愛的に好きなのか、ってことだろ」
悠人はあっさり核心をついた。
「お前、分かりやすすぎるんだよ。桜庭さんが誰かと話してるだけでソワソワしてるし、桜庭さんの弁当食う時だけやたら幸せそうな顔してるし」
「そんな顔してたか、俺」
「してた。自覚ないのが一番厄介なタイプだな、お前は」
呆れたように言う悠人に、陸は苦笑いするしかなかった。
「じゃあ、お前ならどうする」
「俺なら、さっさと言う。桜庭さんみたいなタイプ、待たせすぎると拗れるぞ。ツンデレって、拗らせると厄介だからな」
軽口交じりのアドバイスだったが、陸の中には確かな重みを持って響いていた。夕暮れの道を歩きながら、陸は自分の気持ちに、少しずつ答えを出し始めていた。




