幕間 今の君を知るために
六月に入ると、陸は自分でも妙なことをしていると気づいた。
茜の昔を思い出すだけではなく、今の茜を知ろうとしている。
好きな飲み物は甘いミルクティーのまま。
辛いものは以前より得意になった。
英語の発音はやたら綺麗なのに、それを褒められると少し嫌そうな顔をする。
体育は苦手ではないが、球技になると妙に負けず嫌いになる。
困っている人を見ると放っておけないくせに、自分が困っても人には頼らない。
そして、笑う時。
昔は声を上げて笑っていたのに、今は一度口元を押さえる癖がある。
そのことを陸が指摘したのは、放課後のファミレスだった。
「桜庭って、笑う時ここ隠すよな」
「......どこ見てんのよ」
「口」
「最低」
「なんでだよ」
茜はストローでアイスティーをかき混ぜながら、少し黙った。
「向こうで、笑い方が子供っぽいって言われたことがあるだけ」
「誰に?」
「昔のクラスメイト」
「そいつ見る目ないな」
「は?」
「普通に笑ってる方が桜庭らしい」
茜の手が止まった。
陸は自分が何を言ったのか分からない顔でポテトを食べている。
「......そういうの」
「ん?」
「そういうの、簡単に言わないで」
「何が?」
「もういい」
茜は窓の外へ顔を向けた。
その耳が赤い。
陸はまた、分からないまま首をかしげた。
けれどその日から、茜がたまに口元を隠さず笑うようになったことには気づいた。
ある日、英語の授業で発表があった。
茜が前に立つ。
流暢な英語。
教室中から「すげえ」という声が上がる。
教師まで感心していた。
けれど席に戻った茜は、なぜか少しだけ疲れた顔をしていた。
「どうした?」
「別に」
「褒められてたのに」
「帰国子女だからできて当然、みたいに言われるの、ちょっと苦手」
「なんで?」
「できなかった時期もあるから」
その一言で、陸は初めて想像した。
八年前。
突然知らない国へ連れていかれた、小さな茜。
言葉が通じず、友達もいない教室。
今の流暢さだけを見れば、そこへ至るまでの時間は見えない。
「そっか」
陸はそれ以上、軽々しく「すごい」と言わなかった。
代わりにノートを指差した。
「じゃあここ教えて」
「......さっきの授業聞いてなかったの?」
「発音すごいなと思って聞いてた」
「結局褒めてるじゃない!」
怒られた。
でも今度の怒り方は、本気ではなかった。
その帰り道、茜は珍しく自分から海外の話をした。
最初に覚えた現地の言葉。
初めて一人で買い物できた日。
学校で発表して笑われた日。
次の発表で拍手をもらった日。
何度も転校したこと。
「友達作るの、途中から面倒になった」
「なんで」
「どうせ別れるって思うと、最初から近づかなければ楽だから」
陸は足を止めた。
茜も数歩先で止まる。
「それで、人に頼らなくなった?」
「......たぶん」
「でも俺には弁当作るんだな」
「なんでそこで弁当の話になるのよ!」
「いや、俺には結構近づいてくるなと思って」
「近づいてない!」
「毎週三回弁当」
「料理の練習!」
「図書室で監視」
「してない!」
「屋上に拉致」
「助けてあげただけ!」
陸は笑った。
茜は頬を膨らませた。
しばらくして、茜も笑った。
今度は口元を隠さなかった。
陸はその笑顔を見て、ふと思った。
昔の茜に戻ってほしいわけではない。
八年前の、何でも素直に言う少女は確かに大切な思い出だ。
けれど今、目の前にいる茜は、八年間で傷つき、強くなり、不器用になった。
その全部を含めて、もっと知りたい。
その感情にまだ名前はつかなかった。
ただ、昔を取り戻すこととは少し違う気がしていた。
八年前の約束を思い出してから、陸は妙に昔のことが気になり始めた。押し入れの奥から小学校時代の箱を引っ張り出すと、色褪せた写真、ビー玉、カード、夏祭りの半券が次々に出てきた。
その中に、一枚だけ折り畳まれた紙があった。
『りくくんへ むこうにいってもわすれないでね』
最後まで書ききれず、途中で鉛筆の線が止まっている。手紙というより下書きだった。渡されなかったものが、なぜ自分の箱に入っているのか。
翌日、陸がその紙を茜に見せると、彼女は三秒ほど完全に停止した。
「どこで見つけたの」
「家」
「捨てて」
「なんで」
「今すぐ!」
茜が奪おうとする。陸が避ける。机の周りをぐるりと回る。周囲から見れば完全にじゃれ合っているだけで、悠人には「朝から夫婦喧嘩?」と笑われた。
「夫婦じゃない!」
茜は即答したあと、自分で傷ついたような顔をした。ほんの一瞬だったが、陸は見逃さなかった。
放課後、二人は昔よく遊んだ公園へ行った。ブランコは新しくなっていたが、隅の大きな木だけは当時のままだった。
「これ、たぶん最後の日に書いた」
茜が手紙を見ながら言った。
「渡そうと思ったけど、恥ずかしくなってやめた。で、たぶん陸の家で遊んだ時にノートへ挟んだまま忘れた」
「忘れないでね、か」
「読むな」
「もう読んだ」
「最低」
口ではそう言いながら、茜は手紙を取り返さなかった。
「向こうへ行った最初の頃ね、毎日帰りたかった」
茜はブランコに座った。鎖が小さく鳴る。
「言葉もよく分からないし、友達もいないし。日本では普通にできてたことが、全部できなくなったみたいで。だから夜になると、図鑑を見てた」
「星座図鑑?」
「同じ星なら、日本からも見えるかなって」
陸は何も言えなかった。八年間という言葉は簡単だ。でも、小学生の茜にとって、それは人生の半分以上だった。その始まりに、自分の知らない孤独があった。
「でも、そのうち友達もできたし、学校も楽しくなった。ずっと寂しかったわけじゃないよ」
「そっか」
「だから、変に同情しないで」
「しない」
「......うん」
少し沈黙したあと、茜が笑った。
「でもね。日本に戻るって決まった時、最初に思ったのは、陸に会える、だった」
言ってから、自分で気づいたらしい。
「今のなし!」
「無理」
「忘れて!」
「八年忘れてた分、今度は覚えとく」
茜は顔を覆った。
夕暮れの公園で、陸は初めて思った。八年前の約束があるからではない。今、目の前で怒ったり笑ったりしている茜を、もっと知りたい。
その感情には、まだ名前をつけられなかった。




