第3話 八年前の約束
ある日の掃除当番、教室に残っていたのは陸と茜の二人だけだった。
窓を開けると、五月の風が埃っぽい教室の空気を入れ替えていく。箒を動かす音と、外から聞こえる部活動の掛け声だけが響いていた。
「そういえば」
陸はふと思い出したように尋ねた。
「引っ越す前の日、公園で何か約束したよな。俺、あんまり覚えてなくて」
その瞬間、茜の箒を持つ手が止まった。
「......覚えてないんだ」
茜の声のトーンが、いつもより低かった。
「悪い、子供の頃のことだし。でも大事な約束だった気がして、ずっと引っかかってたんだ」
陸が正直に言うと、茜は少しの間黙り込み、それから小さく息を吐いた。
「別に、大した約束じゃないから。忘れてても、いい」
そう言って背を向けた茜の耳が、また赤くなっていた。陸はその横顔に、何か寂しさのようなものを感じ取った。教室の窓から差し込む夕日が、茜の輪郭をオレンジ色に縁取っていた。
箒を動かす音だけが響く沈黙の中、陸は思い切って続けた。
「なあ、ヒントだけでもくれよ。気になって夜も眠れなさそうだ」
冗談めかして言うと、茜は少しだけ口角を上げた。
「大袈裟。......でも、そんなに知りたいなら、自分で思い出しなさいよ」
突き放すような言い方だったが、その声には、どこか試すような響きも混じっていた。
掃除を終え、二人で昇降口へ向かう道すがら、陸はふと足を止めた。
「そういえば、あの公園、まだあるのかな」
「......さあ。知らない」
茜は明らかに動揺した様子で、歩調を早めた。陸はその反応の大きさに、ますます確信を深めた。あの約束は、決して些細なものではなかったに違いない。
その日の夜、陸は実家の押し入れから昔のアルバムを引っ張り出した。ページをめくるたび、埃と共に幼い頃の記憶が舞い上がるようだった。
八年前の夏、公園のベンチに並んで座る自分と茜の写真が出てきた。二人とも麦わら帽子をかぶり、片手にかき氷を持ってはしゃいでいる。裏に、子供の字でこう書いてあった。
「おおきくなったら、けっこんする やくそく」
顔が一気に熱くなった。
まさか、あれのことか。
アルバムをめくり続けると、他にも茜と撮った写真が何十枚も出てきた。一枚一枚に、忘れていた記憶がよみがえる。
夏祭りで手をつないだこと。屋台のりんご飴を半分こしたこと。ケンカして、陸が言い過ぎた一言で茜を泣かせてしまったこと。次の日、茜の方から折れて「もういいよ」と笑ってくれたこと。
そして、引っ越しの前日。公園のベンチで、茜が真剣な顔でこう言ったのだ。
『陸くん、絶対に忘れないでね。約束したこと』
当時の陸は、その言葉の重みをよく理解していなかった。ただ、大好きな友達との別れが悲しくて、聞かれるがまま頷いていただけだった気がする。
だが、こうしてアルバムを開き、書き込まれた文字を目にした今、あの日の約束が急に、現実味を帯びて胸に迫ってきた。
子供の戯言として片付けるには、あまりにも真剣な字だった。
翌朝、教室で顔を合わせるなり、陸は思わず茜をじっと見つめてしまった。
「な、なによ。変な顔して」
「いや、別に」
思い出したことを言い出せないまま、陸はぎこちなく視線を逸らした。二人の間に、微妙な空気が流れた。
その日一日、陸は授業もろくに頭に入らないまま、隣の横顔ばかりを気にしていた。ノートの端には、いつの間にか「けっこん」という文字を無意識に書きかけて、慌てて消しゴムで消す羽目になった。
放課後、下駄箱で靴を履き替えていると、悠人が話しかけてきた。
「なんかぼーっとしてるな。桜庭さんと何かあったのか」
「いや......その、ちょっとな」
言葉を濁す陸に、悠人はにやりと笑った。
「言いたくないなら別にいいけどよ。顔に出すぎ」
自分ではまだ気づいていない表情の変化を、友人にはあっさり見抜かれていた。陸は誤魔化すように苦笑いを浮かべながら、鞄を肩にかけて校門へと歩き出した。
夕暮れの道を歩きながら、陸の頭の中では、幼い茜の声がずっと繰り返し響いていた。
『絶対に忘れないでね』
――忘れてなんか、いなかった。ただ、思い出す機会がなかっただけだ。
その事実に気づいた瞬間から、陸の中で何かが、静かに、しかし確実に動き始めていた。
数日後の日曜日、陸は思い切って茜にメッセージを送った。「今度の休み、あの公園行かないか」短い文面を、何度も打ち直した末に送信した。
返信は、意外にもすぐに来た。「......別に、いいけど」その素っ気ない一文に、陸は思わず笑ってしまった。
当日、公園に着くと、茜はすでにベンチに座って待っていた。私服姿を見るのは久しぶりで、陸は一瞬、言葉に詰まった。
「何、じろじろ見て」
「いや、別に。私服、久しぶりに見たなと思って」
「変な感想」
そう言いつつも、茜の口元には小さな笑みが浮かんでいた。二人はベンチに並んで座り、昔と同じように、他愛のない話を続けた。あの頃を懐かしむ言葉の端々に、時折、今の気持ちが透けて見える瞬間があった。
「あの頃は、こんなに気を遣わずに話せてたのにね」
茜がぽつりと呟いた言葉に、陸は素直に頷いた。
「今からでも、そうできるんじゃないか」
「.....そうかもね」
夕暮れの光が二人を包み込む中、公園の時間はゆっくりと流れていった。
日曜日、二人は八年前の公園へ行った。ベンチも砂場も小さく見えた。
「昔はここ、もっと広かったよな」
「私たちが小さかっただけ」
二人で笑う。だが、約束を交わしたベンチの前だけは空気が変わった。
「子供の約束って、普通は忘れるよね」
茜が言った。
「そうかもな」
「だから、忘れてても責めたりしない」
少し間を置いて、茜は続けた。
「......でも、覚えててくれたら嬉しい人もいると思う」
陸は返事ができなかった。約束を思い出したから茜が気になるのか。それとも、今の茜をもう一度好きになり始めているのか。その問いが初めて胸に生まれた。
その夜、陸は夕食の席で母親にさりげなく尋ねてみた。
「なあ、茜んち、なんで急に海外行くことになったんだっけ」
「お父さんの転勤よ。急な辞令で、ほとんど準備する時間もなかったみたい。茜ちゃんのお母さん、当時すごく大変そうだった」
「急だったんだ......」
「そうそう。だから茜ちゃんも、お別れの挨拶する時間もろくになくて、泣きながら陸のところに来たのよ。覚えてない?」
言われてみれば、あの日の記憶はどこか慌ただしかった。いつもよりずっと急いで支度をする大人たちと、状況を飲み込めないまま泣きじゃくる子供二人。
「あの子、来る前の晩、お母さんに『陸くんに何か残したい』ってせがんで、一緒にあのアルバムの写真選んだのよ」
「知らなかった......」
知らなかった事実が、また一つ明らかになる。八年前の別れが、茜にとってどれほど突然で、どれほど重いものだったのか。陸は今更ながら、その重みを実感していた。




