幕間 送れなかった手紙
桜庭家の自室には、誰にも見せたことのない箱がある。
薄い青色の、靴箱より少し小さな紙箱。
茜は弁当を作り始めて一週間ほど経った夜、その箱を机の上へ出した。
蓋を開ける。
中に入っているのは、手紙だった。
封筒に入ったものもあれば、便箋を二つ折りにしただけのものもある。現地の文房具店で買った派手な紙、日本から送られてきたキャラクター便箋、学校のノートを破っただけの紙。
全部、宛名は同じだった。
『陸くんへ』
最初の手紙は、引っ越して三週間後。
まだ日本語以外の言葉がほとんど分からなかった頃に書いた。
『こっちは夜です。日本は朝だと思います。学校で友達ができません。陸くんがいたらいいのにと思いました』
住所が分からず、送れなかった。
次は半年後。
『友達ができました。名前はエミリーです。でも鬼ごっこは陸くんの方が速いです』
それも送らなかった。
一年後。
『誕生日おめでとう。プレゼントはありません。帰ったら何かあげます』
二年後。
『こっちでは雪が降りました。陸くんはまだ恐竜好きですか』
三年後。
『学校がまた変わります。友達と別れるのは慣れたと思ってたけど、やっぱり嫌です』
四年後。
『今日、男の子に付き合ってって言われました。断りました。なんで断ったかは書きません』
そこまで読んで、茜は封筒を机に叩きつけた。
「何書いてるのよ、昔の私......!」
誰もいないのに顔が熱い。
五年後の手紙は短かった。
『陸くんは、好きな人できた?』
六年後。
『日本に帰れるかもしれないって聞きました。まだ決まってないから期待しないようにします』
七年後。
『帰国は来年になりそうです。会いたいです。でも会うのが怖いです』
そして最後。
帰国が正式に決まった日に書いたもの。
『陸へ。
たぶん、同じ高校に行きます。
八年ぶりに会って、何を話せばいいのか分かりません。
昔みたいに陸くんって呼んだら変かな。
私のことを覚えてなかったらどうしよう。
覚えてても、どうでもよくなってたらどうしよう。
本当はずっと会いたかった。
でも、会いたかったって言うのは負けたみたいで嫌だから、多分言いません。
普通に話せたらいいな。
普通って何か、もう分からないけど。
茜』
「......普通に話せてないし」
茜は机に額をつけた。
転入初日から失敗している。
久しぶりと言われて否定し、隣の席になれば怒り、図鑑を返すだけで逃げた。
そして今は週に何度も弁当を作っている。
どう考えても普通ではない。
スマホが震えた。
画面には陸の名前。
『明日の弁当、無理しなくていいからな』
茜は数秒固まった。
続けてもう一通。
『毎回早起きしてるだろ。ありがとな』
「......なんで、こういう時だけ気づくのよ」
胸の奥がむず痒い。
返信欄を開く。
『別に無理してない』
打って、消す。
『好きで作ってるだけ』
打って、顔が爆発しそうになって消す。
『料理の練習だから』
これなら安全だと思ったが、あまりにもいつも通りすぎる。
結局、十分近く悩んで送ったのは、
『明日はから揚げ。嫌なら食べなくていい』
だった。
数秒後。
『食べる。楽しみにしてる』
茜はスマホを伏せた。
そして、伏せたまま両手で顔を覆った。
「......ずるい」
何がずるいのか、自分でも分からない。
ただ、八年間送れなかった手紙より、今交わした二行の方がずっと近い場所に陸がいることだけは分かった。
箱の蓋を閉めようとして、茜は最後の手紙をもう一度見た。
『普通に話せたらいいな』
今なら、その続きを書ける気がした。
便箋を一枚取り出す。
『帰ってきて一週間。
普通には話せてません。
でも、前よりずっと楽しいです』
そこまで書いて、茜はペンを止めた。
そして小さく笑った。
この手紙も、たぶん送らない。
いつか本人に、口で言えたらいい。
――いつか。
まだ、その勇気はなかった。
弁当が始まって二週間ほど経った土曜日、陸は母親に頼まれて近所のスーパーへ出かけた。野菜売り場でキャベツを選んでいると、少し離れたところに見慣れた横顔があった。
茜だった。
しかも、真剣そのものの顔で鶏もも肉を見比べている。買い物かごには卵、海苔、ブロッコリー、ミニトマト。どう見ても、最近陸が昼休みに見ている食材ばかりだ。
「よ」
「ひゃっ!」
茜は肩を跳ねさせ、反射的にかごを背中へ隠した。
「な、なんでいるの!」
「スーパーだから」
「答えになってない!」
陸がかごを覗こうとすると、茜は体ごと遮った。
「見るな!」
「いや、別に見ても」
「これは家の! 全部家のだから!」
「うちの弁当に入ってるものとそっくりだな」
「偶然!」
その時、精肉コーナーの店員が茜に声をかけた。
「お嬢ちゃん、今日もお弁当? 先週の唐揚げ、うまくいった?」
沈黙。
陸は店員を見た。茜を見た。もう一度店員を見た。
「......今日も?」
「違うの!」
店員は事情を察したらしく、「青春だねえ」と笑って去っていった。茜はその場にしゃがみ込みそうなほど赤くなった。
「笑ったら殺す」
「笑ってない」
「口元!」
「ごめん」
「謝るくらいなら笑わないで!」
結局、二人はそのまま一緒に買い物をした。茜は野菜の鮮度を見る目が妙に厳しく、陸が適当に選んだキャベツを即座に戻した。
「葉が傷んでる」
「食えれば一緒だろ」
「そういう雑なところ、昔から変わってない」
「お前は細かくなったな」
「生活するには必要なの。向こうでは、お母さんが忙しい時は私が作ることもあったし」
初めて、茜が海外で暮らしていた頃の話を自分からした。
陸は聞き返さず、ただ隣を歩いた。急に質問を重ねたら、また殻に閉じこもってしまいそうだったからだ。
「最初は何作っても失敗した。卵焼きなんて、焦げるし崩れるし」
「今はうまい」
「......そう?」
「うん。俺、好きだよ」
茜の足が止まった。
「何が」
「卵焼き」
「......紛らわしい言い方しないで」
「何と間違えた?」
「知らない!」
先に歩き出した茜の耳は、また赤かった。
その日の夜、陸のスマートフォンに一通のメッセージが届いた。
『明日の卵焼き、甘いのとだし巻き、どっちがいい?』
数秒後、メッセージが削除された。
さらに数秒後。
『間違えた。家族に送るつもりだった』
陸は笑いながら『甘い方』と返した。
翌日の弁当には、いつもより少しだけ甘い卵焼きが入っていた。




