第2話 間違えて作っただけだから
翌週の火曜日、陸は寝坊した勢いで朝食を抜き、購買のパンを買い忘れたまま昼休みを迎えていた。
財布の中を覗いても、小銭は自販機のジュース一本分しかない。仕方なく机に突っ伏していると、コトリ、と何かが目の前に置かれる音がした。
「......食べれば?」
顔を上げると、隣の席で茜がそっぽを向いたまま、二段になった弁当箱を差し出していた。包んでいる布は、見覚えのある水玉模様――昔、茜の母親がよく使っていたものと同じ柄だった。
「これ、俺の分?」
「違う。作る量、間違えただけ。捨てるのもったいないから、仕方なく」
茜の耳が真っ赤になっているのに、陸は気づかないふりをした。蓋を開けると、俵型のおにぎりが三つ、卵焼き、から揚げ、彩りよく敷き詰められたブロッコリーとミニトマト。手抜きのない、丁寧な弁当だった。
卵焼きの端に、小さく「り」と焼き目で書いてあることに気づく。
「......これ、俺の名前?」
「そんなわけないでしょ! 料理の練習で文字書く癖がついてるだけ!」
早口で否定する茜を横目に、陸は卵焼きを口に運んだ。昔と同じ、少し砂糖の効きすぎた味。それだけで、離れていた八年間が一気に近くなった気がした。
「うまい。昔もこんな味だったよな」
陸がぽつりと言うと、茜は驚いたように目を見開き、それからぷいと横を向いた。
「\...\...覚えてるわけ、そんな昔のこと」
実のところ、その日の朝、茜は誰よりも早く起きていた。
午前五時半。まだ薄暗いキッチンで、茜は祖母から譲り受けたレシピ帳を開き、卵焼きの砂糖の分量を何度も見返していた。大さじ一杯半か、二杯か。昔、陸の家で一緒に食べたときの味を、記憶だけを頼りに再現しようとしていた。
三度、卵を焼き直した。一度目は焦げすぎ、二度目は甘さが足りない。三度目でようやく納得のいく色になった時には、もう学校に行く時間が迫っていた。
もちろん、そんな苦労を陸が知る由もない。
その日以来、茜の弁当は「作る量、間違えただけ」という理由で、週に二、三回、陸の机に置かれるようになった。曜日にはっきりした規則性があることに、クラスメイトたちはすぐに気づき始めていた。
「桜庭さんって、相楽のこと好きなんじゃない?」
女子グループの一人がからかうように言うと、茜は顔を真っ赤にして反論した。
「は? ないから! 絶対ないから!」
その声の大きさが、かえって周囲の疑惑を確信に変えていくことに、茜自身は気づいていないようだった。陸は少し離れた場所でその様子を見て、思わず噴き出しそうになった。
「なに笑ってんのよ」
「いや、別に」
昔から、茜は嘘が下手だった。本人は隠しているつもりでも、耳や頬にすぐ本音が出てしまう。八年経っても、そこだけは変わっていないらしい。
放課後、教室に残っていた陸のもとへ、幼馴染役の友人・悠人が意味ありげな顔で近づいてきた。
「お前、桜庭さんと結構仲良くなってるよな」
「仲良く、っていうか。まあ、幼馴染だし」
「弁当作ってもらってる幼馴染とか聞いたことねえよ。羨ましいって言われてるぞ、お前」
悠人の指摘に、陸は初めて自分の状況を客観的に捉えた。確かに、普通ではないのかもしれない。だが、それを意識してしまうと、なぜか妙に落ち着かない気持ちになった。
帰りのホームルームが終わった後、茜は空になった弁当箱を回収しながら、小声で聞いてきた。
「......明日は、何がいい?」
「なんでもいい」
「じゃあ、勝手に決めるから」
ぶっきらぼうな会話の中に、確かなやり取りが生まれ始めていることに、陸はまだ気づいていなかった。
その日の夜、茜は自室で明日の献立を考えながら、ノートの隅にこっそりメモを書き込んでいた。「陸、から揚げ好きって言ってた気がする。明日は多めに作る」――誰にも見せるつもりのないその一文は、彼女の中でだけ、確かな意味を持っていた。
数日後、家庭科の授業で調理実習が行われた。班分けはくじ引きだったが、偶然にも陸と茜は同じ班になった。
「またあんたと組むことになるとはね」
茜はぼやきながらも、エプロンの紐をきびきびと結んでいた。手際の良さは、教室の誰よりも目立っていた。
「桜庭さん、料理得意なんだね」
同じ班の女子に褒められ、茜は少し照れくさそうに答えた。
「まあ、家でもよく作るから」
その「よく作る」対象が誰なのか、班のメンバーは薄々気づいているようだったが、あえて誰も追及しなかった。
包丁を握る陸の手つきがおぼつかないのを見て、茜はため息をつきながら隣に立った。
「危なっかしいから、貸して。こう持つの」
手を添えて教える茜の指先は、思いのほか温かかった。至近距離で触れる距離感に、陸は柄にもなく動揺してしまい、危うく指を切りそうになった。
「危ない!」
茜が咄嗟に手を掴んで止める。二人の間に、一瞬だけ静かな時間が流れた。
「......ちゃんと集中しなさいよ」
いつもより優しい声色でそう言われ、陸は素直に頷くしかなかった。
弁当が三回目になった日、悠人が数え始めた。
「月曜も量を間違えた。水曜も間違えた。今日も?」
「そうだけど」
「桜庭さん、料理より算数が心配だな」
「うるさい!」
教室が笑いに包まれる。茜は真っ赤になった。
弁当箱を返す時、陸は小声で言った。
「でも、俺は楽しみにしてる」
「......何を」
「次は何を間違えて作ってくるのかなって」
茜は一瞬固まり、それから弁当箱を胸に抱いた。
「明日は作らないから」
「そっか」
「......たぶん」
翌朝、陸の机には当然のように弁当が置かれていた。
その頃、桜庭家のキッチンでは、母親が茜の様子を見て、からかい半分に声をかけていた。
「また卵焼き練習してるの? もう何回目?」
「べ、別に。ただの自主練」
「相楽くんの分でしょ、それ」
図星を指され、茜は菜箸を持つ手を止めた。
「な、なんでお母さんまでそんなこと言うのよ」
「だって、あんたが誰かのために早起きして料理するの、久しぶりに見たから。懐かしいなって思って」
母親の言葉に、茜はぐっと言葉に詰まった。
「昔から、陸くんのことになると一生懸命だったもんね、茜」
「昔の話でしょ」
「今もでしょ」
言い返せない茜は、黙って卵を割る作業に戻った。フライパンの中でじゅうっと音を立てる卵焼きを見つめながら、頬がじんわりと熱くなっていくのを感じていた。




