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八年前『結婚する』と言った幼馴染が、俺を睨みながら弁当をくれる  作者: 芦名 雅


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2/14

幕間 八年ぶんの距離


転入して三日目の朝、茜は校門の前で一度だけ足を止めた。


昨日も、一昨日も、陸は当たり前のように「おはよう」と言った。


そのたびに茜は、胸の奥に八年前の自分が飛び出してきそうになるのを必死で押さえていた。


――陸くん。


昔なら、それだけでよかった。


名前を呼んで、隣に走っていって、昨日の続きを話す。それだけで一日が始まった。


けれど八年という時間は、たった二文字の呼び方さえ難しくしていた。


「......何やってるんだろ、私」


校門脇のガラスに映った自分へ小さく呟く。


日本へ戻ると決まった夜、眠れなかった。


陸が同じ町にいることは母から聞いていた。同じ高校になる可能性が高いことも知っていた。


だから嬉しかった。


嬉しかったはずなのに、同じくらい怖かった。


もし陸が自分を忘れていたら。


もし覚えていても、「懐かしいね」で終わったら。


もし隣に、もう特別な誰かがいたら。


八年間守ってきたものが、自分一人だけの思い出だったと分かったら。


そう考えるたび、帰国の日が近づくほど怖くなった。


なのに教室で陸は、茜の姿を見るなり言った。


『......茜?』


名前を呼んだ。


たったそれだけで泣きそうになった。


だから茜は、最悪の返事をした。


『別に、久しぶりでもなんでもないし』


思い返すだけで頭を抱えたくなる。


「ほんっと、馬鹿......」


「誰が?」


真横から声がして、茜は飛び上がった。


「ひゃっ!?」


振り返ると陸がいた。片手にコンビニのパンを持ち、怪訝そうにこちらを見ている。


「朝から校門で自分に悪口言ってる転校生、初めて見た」


「聞いてたの!?」


「馬鹿、までは」


「忘れて!」


「無理だろ」


「忘れなさいよ!」


怒鳴りながら歩き出すと、陸が当然のように隣へ並んだ。


それだけで、また心臓が速くなる。


「なあ、茜」


名前で呼ばれ、足が止まりそうになった。


「......なに」


「海外って、どこにいたんだ?」


あまりにも普通の質問だった。


茜は一瞬だけ迷った。


八年間を説明しようとすれば、きっと長くなる。


最初の国では言葉が分からず泣いたこと。二つ目の学校ではようやくできた友達と一年で別れたこと。誕生日のたび、日本の時刻を計算して陸の誕生日が終わるまでスマホを眺めていたこと。


でも、そんなことを全部話せるほど、今の二人はまだ近くない。


「いろいろ」


「雑だな」


「長いのよ、八年は」


「そりゃそうか」


陸は笑った。


その横顔を見て、茜は少しだけ肩の力を抜いた。


八年は長い。


だから一日で埋めようとしなくてもいいのかもしれない。


一つずつ話せばいい。


昔のことも。


海外でのことも。


そして、今の自分のことも。


「......そのうち話す」


「ん?」


「海外のこと。気が向いたら」


陸は少し驚いてから、「じゃあ気が向くの待ってる」と答えた。


急かさない言い方が、妙に嬉しかった。


教室に入る直前、茜は小さく息を吸った。


「陸」


「ん?」


八年ぶりに、意識して名前を呼んだ。


それだけで頬が熱くなる。


「......今日、英語の小テストあるから。忘れてそうだったし」


「マジで?」


「ほら。やっぱり忘れてた」


「助かった。ありがとう」


「べ、別に。赤点取られて隣で落ち込まれるとうるさいだけ」


いつもの逃げ道をつける。


けれど陸は笑っただけだった。


「はいはい」


その「はいはい」が、昔と同じだった。


茜は前を向いたまま、ほんの少し笑った。


八年間の距離は、まだ遠い。


でも昨日よりは、一歩だけ近い気がした。


転入初日の翌朝、陸はいつもより少し早く家を出た。理由は自分でも分かっていた。昨日、昇降口で「また明日」と言った茜が、どんな顔で登校してくるのか気になっていたのだ。


 けれど通学路の角を曲がったところで、その本人が電柱の横に立っているのを見つけた時には、さすがに足が止まった。


「何してるんだ?」


「別に。道、確認してただけ」


「学校、反対方向だけど」


「......知ってる」


 茜はぷいと横を向いた。八年前もそうだった。待ち合わせをしたいくせに「偶然そこにいただけ」と言い張る。もっとも、昔は三秒で白状していたから、意地の張り方だけはずいぶん上達したらしい。


「一緒に行く?」


「仕方ないからね。あんたが迷子になったら困るし」


「俺、この町から出てないんだけど」


「細かいこと気にしない」


 二人で歩き出す。最初の数分は、靴音ばかりが耳についた。陸には八年分の質問があった。向こうの学校はどうだったのか。友達はいたのか。何が好きになって、何が嫌いになったのか。けれど、どれから聞けばいいのか分からない。


 先に口を開いたのは茜だった。


「このパン屋、まだあるんだ」


「覚えてる?」


「......まあね」


 小学生の頃、二人で百円玉を握って通った店だった。陸は店先の黒板を見て笑った。


「チョココロネ、今も売ってる」


「陸、いつも最後のチョコだけ残してたよね」


「よく覚えてんな」


「べ、別に。変な食べ方だったから印象に残ってただけ」


 その返事が嬉しくて、陸は少し歩幅を緩めた。茜も気づかないふりをして速度を合わせた。


 学校が近づくと、茜の表情がわずかに硬くなった。知らない校舎、知らない制服、知らない人間関係。その中へ一人で入っていくのだと考えれば、昨日の彼女が必要以上に尖っていた理由も少し分かる気がした。


「なあ」


「何」


「分かんないことあったら聞けよ。先生のあだ名とか、購買のパン争奪戦とか」


「そんなくだらないこと、自分で覚える」


「そっか」


「......でも」


 茜は前を向いたまま、小さく続けた。


「どうしても分かんなかったら、その時だけ聞く」


「了解」


 校門をくぐる直前、茜はほんの少し笑った。教室では見せなかった、昔と同じ笑い方だった。


 その日の放課後、陸は星座図鑑をもう一度開いた。ページの端には、幼い茜の字だけではなく、見覚えのない英語の単語が鉛筆で書き込まれていた。海外で覚えたらしい星の名前。その横には、日本語で小さく「陸なら何て言うかな」とある。


 八年間、図鑑はただ本棚に置かれていたわけではなかった。茜は時々開いていた。遠い国で、同じ星を見ながら。


 その事実に気づいた瞬間、陸は図鑑を閉じることができなくなった。知らない八年間の中に、自分がほんの少しだけ存在していた。そのことが、思った以上に嬉しかった。


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