第1話 帰ってきた幼馴染
四月の終わりだというのに、その朝の教室は妙に暑かった。
窓際の席に座った相楽陸は、頬杖をついたまま、校庭を横切っていく風を目で追っていた。新学期特有の落ち着かなさも、クラス替えのざわめきも、もうそろそろ薄れてくる頃だ。誰と誰が仲良くなったとか、どの教師の授業が眠いとか、そんな話題が日常の輪郭を作り始めていた。
だからこそ、その日のホームルームで担任が連れてきた女子生徒は、教室の空気を一瞬で変えた。
「相楽陸、今日から転入してきた桜庭茜さんです」
自分の名前まで呼ばれた気がして、陸は反射的に顔を上げた。
教壇の横に立つ少女は、肩まで伸びた黒髪を耳にかけ、少し緊張したように唇を結んでいた。白いブラウスの襟元。まだ着慣れていない制服。窓から差し込む光を受けた横顔。
そして、何よりもその目。
八年前、毎日のように自分の後ろをついてきた少女と同じ目だった。
「......茜?」
声が漏れた。
教室の何人かが振り返る。担任も「知り合いか?」という顔をした。
少女――桜庭茜は、ほんの一瞬だけ陸を見た。驚き、懐かしさ、困惑、そして何かを押し隠すような色。その全部が一瞬に浮かび、すぐ消えた。
「\...\...久しぶり」
陸が小さく言う。
茜は視線を前に戻した。
「別に、久しぶりでもなんでもないし。たまたま同じクラスになっただけ」
「いや、八年ぶりは普通に久しぶりだろ」
教室に笑いが起きた。
茜の耳が赤くなる。
「う、うるさい。そういう意味じゃないし」
担任は事情をよく理解しないまま、「じゃあ知り合いがいて安心だな」と笑った。
その一言で茜はますます不機嫌そうな顔をしたが、陸にはその不機嫌の理由が分からなかった。
昔の茜は、もっと分かりやすかった。
『陸くん、待って!』
『陸くん、これ半分こ!』
『陸くん、明日も遊ぼうね!』
夏の日差しの下で、いつも笑っていた。転んで膝を擦りむけば泣き、アイスを落とせば泣き、陸がほかの子と遊べばなぜか怒って、でも五分後にはまた隣にいた。
それが八年という時間で、こんなにも変わるものなのか。
自己紹介を終えた茜は、教壇の上で軽く頭を下げた。
「桜庭茜です。父の仕事の都合で、しばらく海外にいました。よろしくお願いします」
簡潔だった。必要以上のことは何も言わない。
けれどクラスメイトからすれば、帰国子女というだけで十分に興味を引いたらしい。席へ向かう茜に、あちこちから好奇の視線が集まった。
そして担任が示した席を見て、陸は思わず笑いそうになった。
自分の隣だった。
「隣、嫌なら先生に言うけど」
冗談半分に言った途端、茜は椅子を引く手を止めた。
「べ、別に嫌とか言ってないでしょ! 勝手に決めつけないでよね!」
教室中の視線が、また二人に集まった。陸は苦笑いするしかなかった。
一時間目の授業が始まっても、陸の集中力は長く続かなかった。ノートを取るふりをしながら、視界の端で隣の様子をうかがってしまう。
シャーペンをくるくる回す癖。消しゴムのカスを几帳面に一箇所へ集める癖。授業中、たまに窓の外を見て、少しだけ目を細める仕草。
全部、昔のままだった。
背丈も、話し方も、纏っている空気も変わったはずなのに、こんな些細な癖だけが変わらず残っているのが、なぜか無性に嬉しかった。
二時間目の休み時間、クラスメイトの一人が興味津々に茜へ話しかけた。
「桜庭さんって、相楽と知り合いなの?」
「幼馴染、みたいな感じ。もう昔のことだけど」
茜は素っ気なく答え、それ以上は続けなかった。だが「みたいな感じ」という曖昧な言い方に、陸は妙に引っかかりを覚えた。ただの幼馴染だと言い切らない、その言葉の選び方に。
昼休み、購買に向かう途中の廊下で、二人は思いがけず二人きりになった。前後に誰もいない、短い廊下の途中。
「なあ」
陸が声をかけると、茜は少し身構えるように振り返った。
「なに」
「本当に、久しぶりって言っちゃダメなのか?」
茜は一瞬押し黙り、それから視線を逸らした。
「......別に、ダメとは言ってない。ただ、みんなの前でいきなり言われると、びっくりするだけ」
「じゃあ、二人のときならいい?」
からかうつもりはなかったが、口をついて出た言葉に、茜の顔がまた赤くなった。
「し、知らない。好きにすれば」
そう言って足早に立ち去っていく背中を、陸はまた見送ることになった。廊下の窓から差し込む昼の光が、茜の黒髪をきらきらと輝かせていた。
放課後、昇降口で靴を履き替えていると、茜が誰もいないのを確認してから、そっと近づいてきた。鞄から取り出したのは、表紙のぼろぼろになった一冊の図鑑だった。
「これ\...\...昔貸してた本。ずっと持ってたから、返しとく」
受け取った瞬間、指先が一瞬だけ触れた。二人とも、気づかないふりをしてすぐに離した。
「別に、大事にしてたわけじゃないから。ただ捨てるタイミングがなかっただけ」
早口の言い訳。だが、表紙の角は丸くなり、ページの端は何度もめくった跡でくたびれている。とても「捨てるタイミングがなかっただけ」の扱いを受けた本には見えなかった。
「じゃあ、また明日」
茜はそう言うと、逃げるように昇降口を後にした。せかせかと歩く後ろ姿は、昔からずっと変わらない、早口で歩く癖のままだった。
陸はしばらくその場に立ち尽くし、手の中の図鑑を見下ろした。表紙をめくると、幼い自分の字で「りく」と書き込んである。そのすぐ隣に、もっと幼い字で「あかね」と付け加えられていた。
誰が書き足したのかは、聞くまでもなかった。
家に帰ってから、陸は自室の机に図鑑を置き、何度もページをめくり直した。恐竜の絵に落書きされた変な顔、海の生き物のページに挟まれた四つ葉のクローバーの押し花。八年前の記憶が、紙の隙間からあふれ出してくるようだった。
窓の外はもう暗くなっていた。陸はベッドに寝転がり、天井を見上げながら、今日一日を反芻した。
素っ気ない態度。赤くなる耳。ぼろぼろになるまで大事にされていた図鑑。
どれか一つだけなら、気のせいで済ませられたかもしれない。だが、全部が重なると、さすがに何か引っかかるものがあった。
――何かある。
その「何か」の正体を、この時の陸はまだ、正確に言い当てることができずにいた。ただ、明日もまた、あの隣の席に座るのが、少しだけ楽しみになっている自分に気づいて、陸は小さく苦笑した。
週末、陸はふと思い立って、あの公園に足を運んでみた。八年前とほとんど変わらない、小さな児童公園だった。ブランコも、砂場も、あの日座っていたベンチも、色褪せてはいたが、まだそこにあった。
ベンチに腰掛け、記憶の中の茜の声を思い出そうとした。無邪気な笑い声、少し舌足らずな話し方、別れ際に見せた泣き顔。どれも、今の茜からは想像しにくいものばかりだった。
スマホを取り出し、写真フォルダの奥深くに眠っていた昔の画像を探す。両親が撮った、幼い自分と茜が並んで写る一枚が見つかった。二人とも歯が抜けた顔で笑っている。あの頃は、素直に「好き」も「嫌い」も口にできていたはずだった。
いつから、人は素直に言葉を選べなくなるのだろう。
夕暮れの公園で、陸はしばらくその写真を見つめていた。やがてスマホをポケットにしまい、来た道を戻り始める。月曜日、また隣の席に座る茜の顔を思い浮かべると、なぜか足取りが軽くなった。
この八年間の空白を、少しずつでも埋めていきたい。そう思う自分に、陸は素直に頷いていた。
再会から一週間。陸は、茜の「変わったところ」より「変わっていないところ」を探す癖がついていた。シャーペンを回す指。考え事をすると唇を尖らせる癖。甘いミルクティーだけは今も好きなこと。
放課後、返してもらった図鑑を開き、四つ葉のクローバーを見つけた陸が「これ捨てるか」と冗談を言うと、茜は教室中に響く声で「だめ!」と叫んだ。
「......植物だって命なんだから」
「八年前の押し花に?」
「うるさい」
陸は笑った。八年という時間は二人を遠ざけたはずなのに、たった一冊の本が、その距離を簡単に縮めてしまう。
その夜、玄関先で母親に呼び止められた。
「陸、今日新しく来た転校生の子、桜庭さんっていうの?」
「なんで知ってんの」
「さっき、スーパーでばったり会ったのよ。向こうのお母さんと。まだ覚えててくれてね、『陸くん元気ですか』って」
母親は懐かしそうに目を細めた。
「小さい頃、毎日のようにうちに遊びに来てたじゃない。茜ちゃん、あんたが泣かせるたびに、なぜか自分も一緒に泣いてね」
「そんなことあったっけ」
「あったわよ。覚えてないの? 引っ越すって聞いた日なんて、玄関先で二人して大泣きして、私まで貰い泣きしちゃったんだから」
記憶の底に眠っていた光景が、じわりと輪郭を取り戻していく。母親はさらに続けた。
「向こうのお母さんが言ってたけど、茜ちゃん、海外にいる間もずっと、あんたのこと気にしてたみたいよ。日本のニュースで陸って名前見るたび、反応してたんだって」
「......そういうの、俺に言うか普通」
照れ隠しに顔をしかめる陸を見て、母親は楽しそうに笑った。
「隠すことないでしょ。いい子じゃない、茜ちゃん」
その一言に、陸は何も言い返せなかった。




