第11話 恋人になった翌日
付き合い始めた翌朝、茜は昨日までと同じ通学路で、昨日までとはまったく違う問題に直面していた。
陸がいる。
ただそれだけなのに、どう接すればいいのか分からない。
「おはよう」
「......おはよ」
「今日も一緒に行く?」
「い、いつも一緒でしょ」
「そうだけど」
陸が笑う。その笑顔に「彼氏」という単語が勝手に重なり、茜は顔を背けた。
「何」
「別に」
「顔赤いけど」
「朝日!」
「曇ってる」
「うるさい!」
学校へ着けば、さらに難易度が上がった。昨日の文化祭で二人が一緒に消えたことをクラスメイトは知っている。悠人など、陸の顔を見るなり親指を立てた。
「おめでとうございます」
「何が」
茜が即座に遮る。
「いや、俺まだ何も」
「何もないから!」
「茜」
陸が小声で呼ぶ。
「付き合ったの、隠す?」
その言葉に、茜は黙った。
隠したいわけではない。恥ずかしいだけだ。でも、陸が「隠されるのは嫌だ」と思うなら、それはもっと嫌だった。
「......隠さない」
「じゃあ」
「でも自分から発表はしない!」
「了解」
昼休み。茜はいつものように弁当箱を陸の机へ置いた。
「はい」
「ありがとう」
「今日は量、間違えたんじゃないから」
陸の手が止まる。
茜は自分で言ってしまったことに気づき、逃げたくなった。けれど、昨日決めた。ちゃんと言葉にする。
「......あんたのために作った」
教室が静かになった。
次の瞬間、悠人が机を叩いて笑った。
「進歩した!」
「うるさい!」
茜は真っ赤になったが、弁当を取り返さなかった。
陸も笑わなかった。
「いただきます」
その声が、いつもより嬉しそうだったからだ。
放課後、二人は並んで帰った。交差点で信号を待っていると、陸の手が少しだけ近づいた。茜は気づいている。けれど自分からは動けない。
信号が青になる。
人の流れに押され、肩が触れた。
その勢いを借りるように、茜は陸の小指をつかんだ。
「はぐれるから」
「人、そんな多くないけど」
「はぐれるの!」
「そっか」
陸は何も言わず、指を絡めた。
初めて手をつないだ。
八年前なら何度もつないでいたはずなのに、今は手のひらが熱くて仕方ない。
「......陸」
「ん?」
「離さないで」
「うん」
その一言だけは、言い訳をつけなかった。
夜、茜は自室のベッドに寝転がりながら、繋いだ手の感触をまだ覚えている自分に気づいた。
スマートフォンを開く。陸とのトーク画面には、まだ数えるほどしかやり取りがない。今までは学校で話せば十分だと思っていたのに、今日はなぜか、何か送りたくて仕方なかった。
『今日、ありがとう』
打っては消し、打っては消し、結局そのままの一文を送った。既読はすぐについた。
『こっちこそ』
それだけの短いやり取りに、茜はしばらくスマートフォンの画面を眺め続けた。
『明日も一緒に行く?』
『行くに決まってるでしょ』
『じゃあ、おやすみ』
『......おやすみ』
布団に潜り込みながら、茜は小さく呟いた。
「彼氏、かあ……」
誰に聞かれるでもないその一言は、ひとりでに口元を緩ませていた。まだ実感のわかない「恋人」という響きが、少しずつ自分の中に馴染んでいく感覚があった。
翌朝、待ち合わせ場所に先に着いていたのは茜の方だった。遠くに陸の姿を見つけた瞬間、思わず駆け寄りそうになった足を、慌てて普段通りの速度に戻す。
「早いな」
「た、たまたま早く起きただけ」
「そっか」
いつもと同じやり取りのはずなのに、今日はその一言一言に、確かな温度が宿っていた。
第12話 はじめてのデートは昔の町で
初めてのデート先を決めるのに、二人は三日かかった。映画、水族館、ショッピングモール。候補はいくつも出たが、茜が最後に選んだのは、昔よく遊んだ町を歩くことだった。
「デートなのに近所?」
「悪い?」
「いや、いいけど」
「八年分、変わったところ見たいから」
日曜日。茜はいつもより少しだけ大人っぽい服で待っていた。陸が「似合ってる」と言うと、開口一番「見れば分かる」と返された。
それでも五分ほど耳が赤かった。
二人は昔の駄菓子屋跡、通っていた小学校、公園、川沿いの道を歩いた。なくなった店もあれば、名前だけ変わった店もある。
「ここ、犬に追いかけられたよな」
「陸が逃げるから私まで追いかけられたの!」
「泣きながら俺の背中叩いてた」
「忘れて!」
思い出話をするたび、八年間の空白の両端が少しずつつながっていく。
昼は、あのパン屋へ入った。チョココロネを二つ買い、近くのベンチに座る。
「まだ最後にチョコ残すの?」
「やる」
「子供」
「お前は?」
「私は普通に食べる」
そう言いながら茜は、最後の一口だけ残した。
「真似した?」
「違う」
「絶対真似した」
「うるさい」
笑い合ったあと、茜は少し真面目な顔になった。
「ねえ。陸は、私が向こうにいた八年間のこと、聞きたい?」
「聞きたい」
「全部?」
「茜が話したい分だけ」
その答えに、茜は安心したように息を吐いた。
海外で初めてできた友達のこと。発音を笑われて悔しかったこと。料理を覚えたこと。高校へ進む頃には日本語より英語の方が先に出る瞬間があって怖くなったこと。それでも家では日本のドラマを見て、日本の本を読んだこと。
「忘れたくなかったんだと思う。日本のこと」
「俺のことも?」
茜は黙った。
そして、逃げずに頷いた。
「......うん」
陸はそれ以上からかわなかった。
「ありがとう」
「何が」
「忘れないでいてくれて」
茜は泣きそうな顔で笑った。
「こっちこそ。思い出してくれて、ありがとう」
帰り道、二人は自然に手をつないだ。今度は、はぐれるからという言い訳はなかった。
パン屋を出たあと、二人は久しぶりに児童公園へ寄った。八年前とほとんど変わらない、あのベンチがまだそこにあった。
「座る?」
「座る」
並んで腰掛けると、ブランコで遊ぶ小さな子供たちの声が響いてくる。
「あの頃の私たちも、あんな感じだったのかな」
「もっと五月蝿かった気がする」
「陸の方が五月蝿かったでしょ」
「茜だろ」
どちらも譲らず、結局笑い合って終わった。
しばらく黙って景色を眺めていると、茜がぽつりと切り出した。
「ねえ、覚えてる? あの日、私が最後に言ったこと」
「絶対に忘れないでね、だろ」
「うん」
茜は少し俯いて、それから顔を上げた。
「あれ、本当は続きがあったの」
「続き?」
「言えなかっただけ。緊張して、結局『忘れないでね』しか言えなくて」
陸は黙って続きを待った。
「本当は、『大人になったら迎えに来て』って言いたかった」
風が二人の間を吹き抜けた。
「今更、言ってもいい?」
「言えよ」
「......迎えに来てくれて、ありがとう」
その一言に、陸はしばらく何も言えなかった。ただ、隣に座る茜の手をそっと握るだけで、返事の代わりにした。
夕方、駅で別れる前、陸はふと思いついたように言った。
「次のデートも、ここでいいよ。俺、この町でお前と歩く時間、結構好きだから」
「......うん。私も」
小さく頷く横顔に、夕日が優しく差し込んでいた。




