第8話 落とし物のノート
翌朝、廊下で一冊のノートが落ちているのを、陸のクラスメイトである悠人が拾った。
表紙に「桜庭」と書かれたそのノートを届けようとした悠人は、開いたページに書かれた文字を、うっかり目にしてしまった。
「今日も、避けちゃった。陸の声、聞いただけでドキドキして、うまく話せない」
「子供の頃の約束、本当は全部覚えてる。忘れたふりしてるの、私の方だった」
――それは、茜の本音がぎっしり詰まった日記だった。
ページをめくると、そこには数週間分の記録が几帳面な字でびっしりと書かれていた。
「今日は弁当、卵焼き失敗した。でも陸、美味しいって言ってくれた」
「文化祭の準備、二人きりで残るの緊張する。でも、嫌じゃない」
「月島さんと楽しそうに話してるの見て、モヤモヤした。こんな自分、勝手すぎる」
赤裸々な言葉の数々に、悠人は思わず息を呑んだ。読んではいけないものを読んでしまった、という自覚が遅れてやってくる。
悠人は迷った末、そのページのことは黙ったまま、ノートだけを陸に渡した。
「桜庭さんの忘れ物。渡しといてくれ」
何も知らない陸は、素直にノートを受け取り、そのまま茜の机に置いた。だが茜が登校し、開いたページを見て青ざめた瞬間、事情はすでに変わっていた。
「これ、誰か読んだ......?」
茜の様子がおかしいことに気づいた陸が声をかけると、茜はノートを胸に抱えたまま、震える声で聞いた。
「陸、これ......見た?」
「いや、見てない。悠人が届けてくれただけで」
その返事にほっとしたのも束の間、悠人が気まずそうに教室に入ってきて、小さく陸に耳打ちした。
「悪い、実はちょっとだけ見えた。......お前、鈍感すぎるぞ」
昼休み、悠人は陸を屋上に連れ出し、真剣な顔で切り出した。
「詳しくは言わないけど、桜庭さんの気持ち、お前が思ってるより、ずっと真剣だぞ。これ以上待たせるのは、さすがに可哀想だ」
「......お前が見たページ、なんて書いてあったんだよ」
「言えるかよ、そんなの。本人に聞け」
友人の言葉に、陸はようやく自分の鈍感さを自覚した。今まで何度も見過ごしてきた小さなサインが、次々と頭の中で繋がっていく。
弁当。図鑑。河川敷での涙。屋上での独り言。すれ違った一週間。
すべてのピースが、ようやく一つの形になった。
その一方、教室に戻った茜は、悠人がどこまで見たのか分からないまま、頭を抱えていた。
「終わった......もう、生きていけない」
机に突っ伏す茜の様子を見かねて、女子の友人が心配そうに声をかけた。
「大丈夫? 何かあったの」
「......ノート、読まれたかもしれない」
「え、まさかあの相楽くんへの気持ち書いてるやつ!?」
「し、知ってたの!?」
友人は苦笑いした。
「そりゃ、あれだけ分かりやすければね......。でも、いい機会なんじゃない? このまま避け続けるより」
友人の言葉に、茜は何も言い返せなかった。
放課後、陸は意を決して茜を呼び止めた。
「話がある。文化祭が終わったら、ちゃんと聞いてほしいことがあるんだ」
茜は何も言えず、ただ小さく頷いた。
「文化祭が終わったら、必ずだから」
念を押すように言う陸の声には、いつもとは違う真剣さがあった。茜はその声色に、これまでとは違う何かを感じ取った。
その夜、二人ともほとんど眠れなかった。陸は何を言うべきか、何度も頭の中で言葉を組み立て直していた。茜は、ノートに書いた言葉が本人にどこまで伝わったのか分からないまま、布団の中で膝を抱えていた。
窓の外には、いつもと変わらない星空が広がっていたが、二人にとってその夜は、これまでのどの夜とも違う、特別な意味を持っていた。
その日の放課後、茜は一人で教室に残り、悠人に直接確認することにした。勇気を振り絞って声をかける。
「悠人くん、ちょっといい?」
「お、桜庭さん。何」
「ノート、どこまで読んだ......?」
単刀直入な質問に、悠人は少し困った顔をしながらも、正直に答えた。
「一行だけ。それ以上は読んでない。誓って言うけど、陸には内容までは話してないから」
「本当に......?」
「本当だって。ただ、あいつに『真剣に考えろ』とは言った。それだけは許してくれ」
茜は肩の力を抜き、小さく頭を下げた。
「......ありがとう。心配してくれて」
「別に、大したことしてないって。ただ、二人とももう、意地張るのやめたら? 見てて、もどかしいんだよ」
悠人の率直な言葉に、茜は苦笑いを浮かべながらも、素直に頷いた。文化祭が終わったら、ちゃんと向き合おう。その決意は、この会話でより一層固まっていった。
悠人がノートで見たのは数行だけだった。それでも十分だった。
『陸が好き』
紙の上でだけ、茜は驚くほど素直だった。
悠人はすぐノートを閉じた。
「これは俺が読むもんじゃない」
昼休み、陸に釘を刺す。
「ノートを答え合わせに使うなよ。桜庭さんが好きだと分かったから告白する、じゃ駄目だ。お前の気持ちはお前が決めろ」
一方、茜は最後のページに昨夜の自分が書いた一文を見つけていた。
『怖いけど、いつかちゃんと言いたい』
放課後、陸に「文化祭が終わったら話がある」と言われた時、茜は逃げずに彼の目を見て頷いた。
その夜、陸は自室で、明日以降どう気持ちを伝えるか、何度もシミュレーションを重ねていた。
「桜庭のこと、好きだ」
声に出してみると、思いのほか照れくさくて、一人なのに顔が熱くなった。何度も言い方を変えて練習してみるが、どれもしっくりこない。
「もっと、ちゃんとした言葉で伝えたい」
机の引き出しから、あの図鑑を取り出す。表紙をめくり、幼い字で書かれた自分と茜の名前を見つめた。八年前の約束を、今度こそ、ちゃんとした形にしたい。そう強く思った。
「文化祭が終わったら」
自分に言い聞かせるように呟く。窓の外には、静かな夜が広がっていた。明日からの二日間が、これまでの八年間よりも長く感じられそうな予感がしていた。




