幕間 文化祭前夜
文化祭前夜。
学校を出たのは午後八時を過ぎていた。
校門前には、陸と茜だけが残った。
「送る」
「いい。近いし」
「暗いから」
「子供じゃない」
「知ってる」
「じゃあなんで」
「俺が送りたいから」
茜は黙った。
こういう時の陸はずるい。
理由を自分側に置かれると、断りにくい。
二人で夜道を歩く。
昼間はまだ暑いのに、夜風には秋の匂いが混じっていた。
「明日、成功するかな」
茜が言った。
「するだろ」
「根拠は?」
「桜庭があれだけやった」
「陸もでしょ」
「俺は桜庭に怒られながら動いただけ」
「自覚あるんだ」
「ある」
茜は笑った。
少し歩いて、陸が言った。
「文化祭終わったら、話したいことある」
茜の足が止まりかける。
「......何」
「終わってから」
「今言えばいいじゃない」
「今は言わない」
「何それ」
「桜庭だって言わないこといっぱいあるだろ」
返せない。
「だから、お互い様」
陸は笑った。
茜の家の近くまで来た。
玄関灯が見える。
別れたくない。
でも、そんなことは言えない。
「じゃあ明日」
陸が言う。
茜は頷いた。
「遅刻しないでよ」
「しない」
「寝坊しそう」
「起こして」
「なんで私が」
「電話してくれたら起きる」
「......仕方ないから、してあげる」
陸が歩き出す。
茜はその背中を見ていた。
「陸!」
振り返る。
言いたい。
今なら。
好き。
八年間ずっと好きだった。
帰ってきたのは、あなたに会いたかったから。
「......明日、頑張ろうね」
結局、それしか言えなかった。
陸は笑った。
「ああ。一緒に頑張ろう」
家に入る。
母がリビングから顔を出した。
「陸くんに送ってもらったの?」
「......うん」
「よかったね」
「何が」
「顔」
「顔?」
「嬉しそう」
茜は慌てて自室へ逃げた。
机の引き出しを開ける。
送れなかった手紙の箱。
一番新しい便箋を取り出す。
『文化祭前日。
明日、陸が話したいことがあると言いました。
期待しない方がいいと思います。
でも期待しています。
怖いです。
もし明日、何かが変わるなら。
今度は逃げないようにしたいです』
書き終えた。
そして初めて、便箋を箱に入れなかった。
机の上に置いた。
明日帰ってきた時、続きを書くために。
その頃、陸も自室で図鑑を開いていた。
四つ葉のクローバー。
二人の名前。
八年前の約束。
「違う」
陸は小さく呟いた。
これを理由にするんじゃない。
約束したから付き合うんじゃない。
茜が自分を好きらしいからでもない。
今の自分が、今の茜を好きだから。
文化祭で一緒に動く時、隣にいるのが自然だった。
他の誰かと話していると気になった。
避けられた一週間は、驚くほど寂しかった。
弁当がない昼休みは味気なかった。
笑っていると嬉しい。
困っていると助けたい。
これから先も、隣にいてほしい。
答えはもう出ている。
陸は図鑑を閉じた。
「明日、言う」
今度こそ。
八年前の子供の約束ではなく。
十六歳の自分の言葉で。
落とし物のノートをきっかけに、陸は茜の気持ちの一部を知った。けれど、知ってしまったからこそ簡単に答えを出したくなかった。
翌日の放課後、陸は一人で図書室へ行った。目的は本ではない。窓際の席から、文化祭準備をする中庭が見えるからだ。
茜は一年生に装飾の付け方を教えていた。失敗した後輩を責めず、自分でやり直すのではなく、もう一度やらせている。終わると小さく拍手した。後輩が笑う。茜も笑う。
陸の知らない茜だった。
その時、ようやく腑に落ちた。
自分が好きなのは、八年前の記憶の中にいる女の子ではない。毎朝早起きして弁当を作り、意地を張って失敗し、誰かのためなら面倒な仕事を引き受け、子猫を見ると声が変わり、怖くなると逃げてしまう、今の桜庭茜だ。
八年前の約束は入口だった。
好きになった理由は、この数か月の中にいくつも増えていた。
帰宅すると、母親が古いアルバムを広げていた。
「何してるの」
「押し入れ整理。ほら、茜ちゃん」
写真の中で、小学生の茜が陸の腕をつかんで笑っている。
「昔から仲良かったわね」
「うん」
「戻ってきてよかった?」
陸は少し考えてから答えた。
「よかった」
「そう」
「でも、昔に戻った感じじゃない」
母が顔を上げる。
「新しく知り合ったみたいな感じもする」
「それでいいんじゃない? 八年も経ったんだから」
陸は頷いた。
昔へ戻る必要はない。
今の二人で、続きを始めればいい。
文化祭で伝えよう。
そう決めた夜、陸は久しぶりに迷わず眠れた。




