幕間 文化祭の前に壊れたもの
文化祭の二週間前、壊れたのは看板だけではなかった。
その日の放課後、陸は廊下でひまりに呼び止められた。
「ちょっとだけ付き合って」
「数学?」
「今日は違う」
中庭の自販機前。
ひまりは缶ジュースを一本買い、陸に渡した。
「この前のお礼」
「何の?」
「数学」
「別にいいのに」
「じゃあデート代の前払いってことで」
陸がむせた。
その瞬間を、二階の窓から茜が見ていた。
声は聞こえない。
ひまりが笑っている。
陸も笑っている。
距離が近い。
茜は持っていた看板用の定規を強く握った。
「......馬鹿」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
その後の作業で、茜は明らかに機嫌が悪かった。
「そこ違う」
「え?」
「赤じゃなくて橙。昨日決めたでしょ」
「悪い」
「ちゃんとして」
「桜庭、なんか怒ってる?」
「怒ってない」
「いや怒ってるだろ」
「怒ってないって言ってるでしょ!」
教室が静まった。
クラスメイトが気まずそうに二人を見る。
茜は自分が大声を出したことに気づき、唇を噛んだ。
「......ごめん」
それだけ言って教室を出た。
陸は追いかけた。
階段の踊り場で追いつく。
「待てって」
「来ないで」
「何があったんだよ」
「何もない!」
「じゃあなんで怒ってんだ」
「だから怒ってない!」
「それで怒ってないは無理あるだろ!」
陸も声を荒げた。
茜の肩が震えた。
「......月島さんと楽しそうだったから」
小さすぎて聞き取れなかった。
「何?」
「なんでもない!」
「またそれかよ」
陸の言葉に、茜の顔が強張った。
「桜庭、最近ずっとそうだろ。何かあるなら言えよ。俺、エスパーじゃないんだから分かんねえよ」
正しい。
正しいからこそ痛かった。
「分からなくていい」
「は?」
「陸には分からなくていい!」
茜は走って階段を下りた。
残された陸は、苛立ちのまま壁に背を預けた。
その夜、二人ともメッセージを送らなかった。
翌日。
完成間近だった看板が倒れた。
中央に亀裂が走る。
クラスがざわつく。
茜はすぐに言った。
「私が直す」
昨日の失敗を埋めるように。
何かを取り戻すように。
一人で板を持ち上げる。
反対側を陸が掴んだ。
「俺もやる」
「いい」
「よくない」
「一人でできる」
「知ってる」
茜が顔を上げる。
陸は昨日とは違い、静かだった。
「一人でできるのと、一人でやらなきゃいけないのは違うだろ」
茜は何も言えなかった。
夜まで修復作業は続いた。
クラスメイトが帰り、教室に二人だけになる。
気まずい。
でも、同じ板を押さえなければ作業できない。
「昨日、ごめん」
先に言ったのは陸だった。
「言い方きつかった」
茜は首を振った。
「私も。八つ当たりした」
「月島と話してたのが原因?」
茜の手が止まる。
逃げたい。
でも昨日と同じことを繰り返したくなかった。
「......ちょっとだけ」
「なんで?」
「それは言わない」
「そこは言わないのかよ」
陸が笑った。
茜も、少しだけ笑った。
完全な仲直りではない。
肝心なところはまだ言えない。
それでも壊れた看板を二人で直すうち、昨日壊れかけた何かも少しずつ元へ戻っていった。
作業の途中、茜は海外で何度も転校した話をした。
「人に頼って、仲良くなって、それでまた別れるのが嫌になった」
「だから何でも一人でやる?」
「その方が楽だから」
陸は板を押さえながら言った。
「でも今は俺がいる」
茜は俯いた。
「......そういうこと、簡単に言わないでよ」
「なんで」
「期待するから」
今度は、はっきり聞こえた。
陸の手が止まった。
茜はしまったという顔をした。
「今の忘れて」
「無理」
「忘れて!」
「そればっかだな」
「うるさい!」
二人の声が、夜の教室に響いた。
昨日より、ずっといつもの二人に戻っていた。
買い出しから帰った夜、茜は自室の机に文化祭のレシートを並べていた。計算は合っている。備品も不足していない。問題があるとすれば、自分の頭の中だけだった。
人混みではぐれないように陸の袖をつかんだこと。画材屋で二人きりになったこと。帰り道、重い袋を当然のように持ってくれたこと。
「デートじゃない。買い出し」
声に出して確認する。
「デートじゃない」
二回言ったところで、スマートフォンが震えた。陸からだった。
『今日はありがとな。助かった』
それだけの文章を、茜は五分見つめた。
『別に。委員だから』と打つ。消す。
『お疲れ』と打つ。短すぎる気がして消す。
『私も楽しかった』まで打って、顔が熱くなって全部消す。
結局送ったのは、『明日、レシート忘れないで』だった。
すぐに既読がつく。
『了解。あと、今日楽しかった』
茜はベッドへ倒れ込んだ。
「ずるい......」
自分は言えなかったことを、陸は簡単に言う。
でも、昔の陸もそうだった。好きなものは好き。楽しいものは楽しい。明日も遊びたいなら、明日も遊ぼうと言う。
茜は枕に顔を埋めたまま、指だけ動かした。
『......私も、少しだけ』
送信。
三秒後に後悔した。取り消そうとした時には、既読がついていた。
『そっか。また行こう』
「買い出しはもうないでしょ......」
そう呟きながら、茜は笑っていた。




