第6話 素直になれない夜
文化祭の準備も佳境に入ったある日、陸と茜は買い出しのため二人で商店街に出かけることになった。
「他の人と行けばよかったのに」
「委員長の相楽くんと副委員長の桜庭さんが行くのが一番効率的だって、みんなが言ったんでしょ」
茜はぶつぶつ言いながらも、結局ついてきた。土曜日の商店街は買い物客で賑わっており、人混みの中ではぐれないよう、茜が陸の袖をそっとつかんだ。
「はぐれても知らないから」
そう言いながらも、その手は最後まで離れなかった。陸はその手の温度を意識しないようにしながら、なるべく普段通りの足取りで歩いた。
画材屋で装飾用の布を選んでいるとき、茜は珍しく子供っぽくはしゃいだ様子を見せた。
「これとこれ、どっちがいいと思う?」
二枚の布を交互に陸に見せる横顔は、久しぶりに見る、昔と変わらない無邪気な表情だった。陸は思わずその顔に見とれて、質問に答えるのが一拍遅れてしまった。
「......陸? 聞いてる?」
「あ、悪い。どっちも良さそうだから迷うな」
「もう、ちゃんと考えてよ」
頬を膨らませる茜の様子に、陸はつい笑ってしまった。子供の頃、こうやってよく怒られていたことを思い出す。
装飾用品を一通り買い終え、休憩がてら立ち寄った甘味処では、茜が真剣な顔でメニューとにらめっこしていた。
「あんみつと、白玉パフェ、どっちにしよう」
「両方頼んで半分こすればいいだろ」
「......子供の頃、よくそうやって半分こしてたね」
茜がぽつりと言った瞬間、注文を取りに来た店員が「お決まりですか」と声をかけた。茜は慌てて「あんみつでお願いします」と早口で答えたが、その頬はほんのり赤らんでいた。
運ばれてきたあんみつを、茜は当然のように半分に取り分け、陸の皿に寄せた。何も言わず自然にそうする様子に、陸の方が少し驚いた。
「昔と、あんまり変わってないんだな」
「な、なによ急に」
「いや。素直じゃないところ以外は、結構そのままだなって」
からかい交じりに言うと、茜は箸を止めて陸を睨んだ。
「素直じゃないとか、失礼でしょ」
「否定はしないんだな」
「うるさい。早く食べないと帰りが遅くなる」
話を強引に打ち切った茜だったが、その耳はいつも通り赤く染まっていた。
帰り道、夕暮れの河川敷を歩いていると、茜がふと足を止めた。買い物袋を両手に提げたまま、川の水面を見つめている。
「ねえ、覚えてないって言ってた約束のこと。本当に、思い出さなくていいから」
その声には、いつもの強がりとは違う、弱さのようなものが滲んでいた。
陸は迷った末に、正直に打ち明けることにした。
「実は思い出した。アルバム見つけて。......結婚の約束、だろ」
茜の顔が一瞬で真っ赤になった。
「な、なんで今それ言うのよ! ずっと黙ってたくせに!」
慌てふためく茜の姿に、陸は思わず笑ってしまった。
「笑うな! 子供の頃の話でしょ、忘れて当然じゃない!」
「じゃあなんで、ずっと持ち歩いてた図鑑、あんなにボロボロになるまで大事にしてたんだよ」
核心を突かれ、茜は言葉に詰まった。しばらくの沈黙の後、消え入りそうな声で言った。
「......忘れられなかった、だけ」
河川敷の風が、二人の間を静かに通り抜けていった。
「忘れられなかったって、どういう意味で」
陸が一歩踏み込んで尋ねると、茜は俯いたまま、指先で自分の袖口をぎゅっと握りしめた。
「......そのままの意味。それ以上、聞かないで」
声が震えていた。買い物袋を握る手にも、いつもより力がこもっているのが分かった。
「桜庭」
「もう遅いから帰る!」
陸が何か言おうとした瞬間、茜は逃げるように背を向けて歩き出してしまった。夕日に照らされたその背中は、いつもより小さく見えた。
追いかけようとした陸だったが、その日はそれ以上、言葉を交わすことができなかった。一人残された陸は、河川敷にしばらく立ち尽くし、遠ざかっていく茜の後ろ姿を見送っていた。
夕闇が川面を紫色に染めていく中、陸は自分の中の気持ちに、ようやくはっきりとした輪郭を感じ始めていた。
河川敷から帰った翌日、茜は朝から様子がおかしかった。目を合わせようとせず、必要最低限の会話しかしない。陸は昨日の一件を思い出し、迂闊に踏み込みすぎたことを後悔していた。
昼休み、思い切って屋上に呼び出そうとしたが、茜は素早く教室を出て行ってしまい、機会を逃してしまった。
「無理に追いかけない方がいいんじゃないか」
悠人の忠告に従い、陸はその日一日、あえて距離を置くことにした。だが、隣の席に座る茜の横顔をちらちらと気にしてしまう自分を、抑えることはできなかった。
放課後、誰もいなくなった教室で、陸は茜の机の上に一枚のメモを置いた。「昨日は無理に聞きすぎた。ごめん。急がなくていいから」短い一文だったが、書くのに随分時間がかかった。
翌朝、机の中を確認すると、メモは消えていた。代わりに、小さな付箋が一枚残されていた。「別に、怒ってないから。ちょっと、驚いただけ」不器用な字で書かれたその一言に、陸は胸の奥が温かくなるのを感じた。
河川敷から帰った茜は、自室の引き出しを開けた。そこには八年間、一度も送らなかった手紙があった。
『陸くんへ。こっちで友達ができました。でも陸くんと遊ぶ方が楽しいです』
『誕生日おめでとう。住所が変わってたら嫌だから送りません』
『もう私のこと忘れた?』
最後の一通には、『日本に帰ったら普通に話せるかな』と書いてあった。
再会の日、陸が「茜?」と呼んだ瞬間、本当は泣きそうなくらい嬉しかった。嬉しすぎたから怖くなり、「別に、久しぶりでもなんでもない」と言ってしまった。
「ほんと、ばか......」
茜は自分に向かって呟いた。
その夜、自室に戻った茜は、ベッドに横たわりながら、河川敷でのやり取りを何度も反芻していた。
「忘れられなかった、だけ」
あの一言を口にした時の、自分の声の震えを思い出す。もっと素直に言えたはずなのに、結局また、核心を避けてしまった。
枕元のノートを開き、今日の出来事を書き留めようとしたが、ペンはなかなか進まなかった。何度も書いては消し、消しては書き直す。
「陸に、ちゃんと好きだって言いたい。でも、言った後どうなるか考えると、怖くて動けない」
「もし振られたら、幼馴染にも戻れなくなるかもしれない。それが一番怖い」
正直な気持ちを綴った後、茜はノートを閉じ、天井を見上げた。窓の外を見ると、月明かりが淡く部屋を照らしている。
「......もう少しだけ、勇気が欲しいな」
小さな呟きは、誰に届くこともなく、静かな部屋に溶けていった。




