第四話 その日、少女は一歩を踏み出した④
棚マッチョさんを呼んで波之良氏たちの見守りをお願いしたり、念のために用意していた替えの服を探している間に随分と時間が経ってしまった。
空は紅玉を溶かしたかのようで、星を抱いた夜が迫ってきている。約束の時間は過ぎてしまっていた。あのあがり症の相乃だろうと、さすがに落ち着きを取り戻して本題に入る頃だろう。
平等に戦え、先を譲ってやる、などと格好つけたはいいが、二人はどうなってしまったのだろうかと焦りが生まれる。これでカップルとなってしまったら、俺は告白することもできない。息を荒げながら全力疾走し、頼むから結果を焦らないでくれ、せめて俺が告白する余地を残していてくれ! と願いながら波止場広場へと向かった。
「ハア……ハァ……よ、ようやく着いた……」
潮の香りが鼻をくすぐり、顎を上げて呼吸するのをやめて顔を下げてみると、夕焼けに染まる海が見えた。
そこはコンクリートの道が海を囲って入り江を形成しており、内側の一部が台形に出っ張って広場となっている。その広場の中心には休憩所があり、円形の屋根の下、ベンチに座る二人の少女の姿があった。
夕陽が差し込み、まるで二人は宝石の中に閉じ込められているかのようである。そこだけ世界と隔てられていて、二人だけの空間となっていた。
距離があるせいで声は聞こえない。だが、相乃は優しく穏やかな微笑みで言葉を紡いだ。
それから箱を膝の上に置き、中から精一杯の愛を取り出した。
わぁ、綺麗――桃地ヶ丘さんはきっとそうに言ったに違いない。蕩けるようでいて、どこか切なそうな笑顔を浮かべている。
そっと結晶を持ち上げる相乃。少しだけ震えながら、目の前の少女へと差し出す。恥ずかしがり屋だというのに、必死に顔を上げ、愛する人の目を見つめながら――
茜色の輝きを取り込み燃え上がるかのようなそれを、桃地ヶ丘さんはそっと受け取った。
想い人に触れられた結晶は、必死に愛を伝えようと明りを灯す。その輝きは見惚れる桃地ヶ丘さんの体を伝い、全身を覆った。
相乃の愛が伝わった――俺はそう思った。
だが、次の瞬間、
「あっ…………」
俺は思わず声を上げてしまった。
ばくりと、桃地ヶ丘さんが結晶を口に入れてしまったのだ。
いつものように咀嚼し、「美味しぃ!」と言わんばかりに体をぶるりと震わせ、至高の笑顔を浮かべている。
……あぁ、駄目……だったのか。
ここに向かいながら、俺こそが桃地ヶ丘さんの恋人になるのだ、と意気込んでいた。相乃には悪いが、失敗を願う気持ちも少なからずあった。
だが、どうしてだろう……喜びは浮かんでこない。一ヶ月近く一緒に過ごし、恋に苦しんでいる姿を見てきたせいか、微笑みを崩さない相乃の姿に胸が苦しくなる。
――と、不意に相乃がこちらに視線を向けて来た。
彼女は桃地ヶ丘さんに何かを言って、こちらに向かってくる。
俺はあたふたと彼女にかける言葉を模索する。しかし、なぜだか頭が働かず、思いつく前に相乃が目の前まで来てしまった。
「はは、服が変わってる。何となくどうやって切り抜けたか想像できるよ。ともかく無事で良かった……もしボロボロにされていたら、って心配だったんだから」
「な、何てことはない! 俺の手にかかれば、あんなやつらなどあっという間だ!」
「よく言うよ、あんなに焦ってたのにさ。まあ何にせよ、これで気兼ねなく告白できるね」
「うっ! あ、ああ、そうだな! しかし、してもいいのかどうか……その、君の告白の結果次第では、する意味もなくなってしまうし……」
「見てたんでしょ? 結晶、食べられちゃった。私の告白は、愛の告白じゃなくて友情だと受け取られたみたい。まあつまり……フラれちゃったってこと」
まるで日常の会話のように、朗らかな声で彼女は言う。
それが空元気のように見え、「それは……残念だったな」と俺は絞り出すように言う他なかった。
「もう、やっぱり! 君のことだから、私がフラれたら絶対気にすると思ったんだよ! だから後攻が良かったのに!」
「そ、そうだったのか。すまない、そうとは知らず身勝手なことを言ってしまった……」
「これから君は大好きな人に告白するんだよ? 暗い顔してないで、笑って笑って!」
「そう言われても……今の君の前で、そんな真似は……」
相乃は呆れたように溜息を吐き、「フラれたのは私なんだけどなぁ」とぼやく。
それからしばし逡巡するような間を空けると、俺の目を見つめてきた。
「しょうがないなぁ。君がそんなに落ち込むっていうなら……本当のこと伝えるよ。あのね、愛多知君。これは大成功なの。私は願いが叶って、とても満足してるのよ」
言っている意味が理解出来ず、俺は固まってしまう。
大成功? 満足? 一体どういうことだ?
「最初に言ったでしょ? とても難しい恋だって。でも愛多知君は見事に叶えてくれた。さすがはプロの恋愛カウンセラーだね。尊敬しちゃうよ」
「ま、待て、待ってくれ! 言っている意味がさっぱり分からない! 君、フラれたと言っていたよな? それが大成功だと? それではまるで、フラれることを望んでいたみたいではないか!」
俺は相乃の目を見返す。真意はどこにあるのだ、と探るように。
しかし、答えは示されていた。そのままの意味なのだ。彼女の目には嘘を吐いた後ろめたさはなく、何かを成し遂げたかのような達成感が映っていた。
「今までありがとう、愛多知君。そして利用してごめんね。その通り、私はフラれるためにここまで頑張ってきたの。精一杯頑張って、納得が行くまで恋をして……最後は友情を確かめ合って、恋を終えたかったんだ」
「馬鹿な! あれだけ桃地ヶ丘さんを愛していたのに、彼女の心が誰かのものになるのではないかと不安がっていたのに、こんな結果でどうして満足できるというのだ!?」
「もういいじゃん、この話は。ささ、私のことは放っておいて、告白しに行きなよ。今まではもっちーに近づく誰もが憎かったけど……私の恋に真っ直ぐ向き合ってくれた君なら応援できると思うし、納得もできる。だから、精一杯気持ちを伝えて――」
「できるかっ! フラれて満足だなんて納得できるはずがない! 君は何を目指し、何を得ようとしていた!? 俺が誇りに思うこの力を利用したというのなら、せめて説明するべきではないか!」
困惑はほとんど怒りとなって口から飛び出していた。
尊厳を踏みにじられたように感じられ、最初からお前には期待していなかった、お前の力に何の価値もないのだ、と言われているような気がして、俺は答えを求めた。
相乃は俺の剣幕に驚いたのか、数度瞬く。「そうだね……私には説明する責任があるよね」と口にした。
「えっと、ね……中学の時、好きな子がいたんだ。やっぱりその子も女の子だったんだけど、その子は女の子のことが好きじゃなくて……告白したら、離れて行っちゃった」
その悲しみに満ちた声に、はっと俺は我に返った。
これは、触れてはいけないところだ。きっと彼女の心の傷の話である。
俺は咄嗟に、「相乃、すまん! それ以上言わなくて――」と止めようとするが、
「こうなったら最後まで聞いて。そしてできれば、この結果に納得して欲しい」
と、微かに震える声で言った。
「たぶん、その子が告白されたことをみんなに打ち明けたんだと思う。それから私、教室で孤立しちゃってさ……告白したのが二年の後半だったから、残りの一年間、ずっと一人で過ごしてきたんだよね。幸い悪口を言われたりとか、いじめられるとかはなかったんだけど……親しい人が離れていくのって、心が引き裂かれるように苦しくて……あんまりにも辛いから、忘れるためにこの町に逃げてきたんだけど……」
相乃は大きく息を吸い、深々と吐く。
視線を地面に落とし、苦笑を張り付けたまま続けた。
「……告白したその子もこの町の高校に通ってたみたい……たまたまた出くわしちゃって、そしたらあの子、お化けを見たような顔をして、走って逃げてっちゃった……」
小さなミスをしてしまったかのように後頭部に手を当て、「ははっ」と彼女は笑う。
その姿を目にしたその瞬間、俺の脳裏には彼女との初対面の時の光景が蘇っていた。
あの時、彼女は涙を浮かべていた。とても苦しそうな顔だった。
もしかして今の話……俺たちの出会いの直前のことか? あの涙は、心をずたぼろにされた痛みの涙だったのではないか……?
「……すまない、相乃。思い返せば、桃地ヶ丘さんと結ばれたいとも、結んで欲しいとも言わなかったな。それだというのに君の気持ちを察することができず、俺はいつも通り縁を結ぼうとするばかりだった……。だが、これからは違う! 友情が損なわれないよう、もっともっと丁寧にプランを立てる! 全身全霊をかけて君の心に寄り添おう! だから、トラウマに負けず、もう一度告白を――」
苦しみに気づかず、自分のことばかり話していた罪を償わなければならない。
そう思った俺は、彼女を支え傷ついた心を癒してやろうと、そのように口にしたのだが、
「違う、そうじゃないッ!!」
相乃は体の底から絞り出すように、悲鳴じみた声を上げた。
「私のことなんてどうでもいいの! 私は、もっちーを守りたいのっ!!」
「ま、守りたい……?」
「もっちーは、私の気持ちを知っても絶対に逃げたりしない! 私を一人にしたりしない! それどころか親友の私のために、私に恋をしていなくても恋人になってくれちゃうかもしれない! だからこそ駄目なのよッ!! 私と恋人になっちゃったら、もっちーの傍から親しい人がいなくなっちゃうかもしれない! 大好きな友だちがいなくなっちゃうかもしれない! その痛みを、あんな苦しみを……もっちーに味わわせたくないのッ!!」
頭を、拳銃で撃ち抜かれたようだった。
覚悟の拳。決意の眼差し。そこに、自己保身や自己愛は存在しない。
……ああ、そうか。相乃は、自分の愛から愛する桃地ヶ丘さんを守りたかったのだ。
恋心を放っておけば、いずれ限界が来て溢れてしまう。それを知られて桃地ヶ丘さんが応えてしまったら、彼女を傷つけることになる可能性があった。
だから、終わらせたかったのだ。
気持ちが溢れないように、納得できる形でフラれてしまいたかったのだ。
まるで自殺するかのような恋……しかしその自己犠牲の精神が、彼女の愛をここまで大きく育ててしまったのだろう。
何て皮肉なことだろうか……何て悲しい恋なのだろうか……。
「だから、愛多知君。これで終わらせて。もう、私の恋を成就させようなんて思わないで。私はしっかりとゴールテープを切った。もう、満足。あとは一人でどうにかできるから」
そんなはずはなかった。
彼女の体からは、轟々と『愛の波動』が噴き出ていた。
とても大きく、苦しみに悶えるように吹き荒れている。
この愛の炎を消すのに、一体どれほどの涙が必要なのだろう。
この恋を消してしまうには、どれほど心から血を流さなければならないのだろう。
……俺は、自分が恥ずかしい。
矜持、誇り、と口にし、功績を偉そうに語って彼女を焚きつけた。それでも彼女は決して揺るがず、自分の心を殺し、これからも覚悟を持って苦しみに耐え抜こうとしている。
彼女に比べたら、俺など自分の満足しか考えられないちっぽけな存在ではないか……! 彼女を導こうなど、おこがましいにもほどがある!
本当に、本当に最低な野郎で……ただの知ったかぶりの子どもで……どうしようもない間抜けで――
………………………………。
…………そうだとしても、全てを投げ出し、彼女を見捨てていいはずがない。
ずっと苦しんできたというのに、これからも茨の道を一人で進もうとする彼女を引き止めないでいいはずがない。
そう思うからこそ、俺は震える拳を握りしめ、口を開いた。
「……嘘だな。違うぞ、相乃。君が真に望んでいるのは……恋が叶うことだ! 桃地ヶ丘さんと手を握り、一緒にどこかにでかけ……幸福を分かち合うことだっ!」
突然の大声に、相乃はびくりと肩を震わせていた。
しばらく目を丸くしていたが、俺の言葉に怒りを覚えたかのように顔を歪めた。
「何言ってるのよ……私はもっちーの生活を守ることこそが望みなの! それ以外、何もいらない!」
「だが、桃地ヶ丘さんに告白する準備をしていた間、あれだけ楽しそうにしていたではないか! 恋バナをしようとしていた時、桃地ヶ丘さんとショッピングモールへ行った時、家に彼女が泊りに来た時、これ以上ないってぐらい幸せそうだったではないか!」
「し、仕方ないじゃない……だって、恋をしてるんだもの! 愛してるんだもの!! もっちーの顔を思い出しただけでふわふわするし、あの笑顔を思い出せば幸福な気持ちになるし、声を思い出せば切なくなるんだもの、仕方ないじゃない!! それでも必死になって納得しようとしてるのに……何でそんな、否定するようなこと言うのよッ!!」
その声は震えており、ほとんど悲鳴のようだった。
その表情は今にも泣いてしまいそうなほどぐしゃぐしゃで、俺は怯んでしまう。
……これは、俺のエゴなのかもしれない。
いや、きっとそうなのだろう。何せ俺は彼女の苦しみに気づいてやれず、追い詰めるようなやつなのだから。
でも……それでも、彼女にこれ以上傷ついて欲しくないから、今俺が抱く精一杯の気持ちを叫んだ。
「なぜって――君のことが好きだからッ!!」
その時、一陣の風が吹いた。
俺の意思に反応して生み出されたかのようなその風は、俺の気持ちを水平線の彼方へと運んでいく。
相乃はぽかんと口を開き、瞬きをするのも忘れていた。
そこで俺は自分の言葉の足りなさに気づき、「ああいや、そういう意味じゃなくてだな!」と慌てて訂正する。
「あくまでも、俺が恋しているのは桃地ヶ丘さんだ。つまり、何が言いたいというと……俺は『一人の人間として』君が好きだ」
「えっと……いまいちピンときてないんだけど……?」
「気持ちを伝えたくて否定するようなことを言ってしまったが……君の覚悟こそ、君の心の大部分を占めるものだということは分かっている。だからこそ俺は君を尊敬するのだ。尊敬できる君だからこそ……幸せになって欲しいと思うのだよ」
「そ、そんなこと言われたって……私が幸せになったら、代わりにもっちーが不幸に――」
「相乃、君は一人ではない」
「…………え?」
「もし、君たちのことをとやかく言う輩がいたら、俺が黙らせよう。もし君たちから離れていく者がいたら、俺が繋ぎ止めよう。だから相乃……恋を諦めないで欲しい。俺は絶対に見放したりしないから……もう一度、その愛に向き合ってくれないか?」
心が揺れ動いたのだろう。相乃はごくりと唾を飲み込んだ。
そしてそれを誤魔化すように、「そ、そんなことまでしてくれるなんて……愛多知君は私の何なのよ」と茶化すよう言った。
「何なの、か……それは――」
契約関係。居候。同じ人を好きになったライバル。
色々と思いつくが、しっくり来るものが浮かばない。
俺は迷いに迷い、考えに考え――ようやく一つに絞り込んだ。
「友だち、だろ?」
これが正解か分からず、ピンときたから口にしたわけでもない。
だが不思議と、口にしてしまえばこれで良かったのだと思えた。
「わ、私と愛多知君が……とも、だち……?」
「ああ、そうだ。少なくとも俺はそう思っている」
「そうだとしても、そこまですることはないんじゃ……」
「いいや、するさ。もし君が俺だったとしたら、同じことを言うだろう?」
「そうかもしれないけど……でも、愛多知君は? 君の恋はどうするの?」
「今は、自分の恋よりも君の恋の方が大事だと思っている。しかし俺は君と違ってできた人間ではないから、自己犠牲の精神で言っているわけではないぞ。ただ……そうしたいだけだ。俺がそうしたいと思っているだけなのだ」
訴えかけるように見つめると、相乃は思わずといった様子で顔を逸らした。
「なにカッコつけてるんだか」、だとか、「それにしても、そっかぁ、私と愛多知君は友だちだったかぁ」、などと口にし、へらへらと笑う。しかしその笑みもすぐに消え、何かに迷うように、何かを堪えるように、視線を彷徨わせた。
「あぁ、そっか……愛多知君は、私から逃げたりしないんだね……」
不意に動きを止めた相乃はその様に呟き、目を閉ざした。
心を落ち着けるように何度も何度も息を吐く。
それからゆっくりと目を見開き、顔を上げると、
「………………お願い……できるかな……?」
努力は虚しく、ついにその目から涙が零れ落ちてしまった。
たったの一筋――それでも、彼女のこれまでの苦しみを表すように、重々しく頬を伝う。
彼女の心の叫びが聞こえてくるかのようで、俺もたまらず泣いてしまいそうになる。だが、彼女に苦しみから解放されて欲しいから、俺は笑みを浮かべた。
いつものように、不敵な笑みを――
「ああ、任せておけ! 大船に乗ったつもりでいるがいい! 何せ俺は『愛の伝道師 DE☆N☆MA』だからな! どんな恋だって叶えてみせよう! だから……涙を拭け。泣いていては同情を誘ってしまう。それは、君が望むところではないだろう?」
うっ、うっ、と嗚咽を漏らしていた相乃だったが、「うっ、うう……ふぅんむっ!!」と唇を引き結び、ぐっと我慢して涙をひっこめた。
荒い息を吐きながら目元を拭い、顔を上げた彼女の目はきらきらと輝いている。
恋する乙女の眼差しだった。
「行ってくるよ、愛多知君! もう一度、気持ちを伝えてくる!」
「ああ、行ってこい! 俺が全力で支えてやる!」
頷いた相乃は、俺に背を向ける。
俺はその背中に手を当て、
「そういえば、『背中を押してくれ』というのが君からの依頼だったな」
そのように思い出しながら、力強く押した。
途端、相乃が放つ『愛の波動』は凄まじいエネルギーとなって吹き荒れる。
ビリビリとした衝撃を肌が感じ、周囲のあちこちで小爆発が起こった。
しかしこんな大事な時に丸裸にするわけにはいかない。全身全霊、俺の人生全てを賭け、突き出した右手に意識を集中させると、
「行け、相乃ォォォォォオ――!!」
かつてないほどに大きな愛を纏い、桃地ヶ丘さんの前に立った彼女に向け、力の全てを放った。
「桃地ヶ丘一檎さぁぁぁぁぁぁぁぁぁああん!! 私は、あなたのことを、愛していまぁぁぁぁぁあああああす!! だから私と……付き合ってくださぁぁぁぁぁぁあいッ!!」
その瞬間――世界は桃色に包まれた。
いつものように爆発が起こったわけではない。
相乃の足元より発生した『愛の波動結晶』が辺り一面を埋め尽くし、それどころかすぐ目の前の海すらも覆ってしまったのだ。
形なんてあったものではない。結晶は削り出された岩石のように無骨に広がっており、霜柱のように地面から生えているところもある。一体どのように力が作用したのか、宙にはハートマークの結晶がふわふわと浮いており、まるで異世界のような光景だった。
「わ、わあっ! すごい、すごぉい! まなみん、イリュージョンなんてできたのぉ? あぁ、こんなにいっぱい用意してくれるなんて……じゅる……食べ切れるかしらぁ! んむむ……も、もう我慢できない、いっただきまぁす!」
わぁい、と歓声を上げ、桃地ヶ丘さんは海へと駆け出した。その目は爛々と輝き、結晶ならぬ飴細工しか見えていない様子である。
そう思ったのだが。
彼女は不意にくるりと踵を返すと、相乃の下へ戻ってきて勢い良く飛びついた。
「大好物をこんなにたっくさん用意してくれて本当にありがとぉ! 私もまなみんのこと愛してるよぉ! いつだってどこにだって付き合ってあげちゃうんだから!」
でも今は食べさせてぇ! と言って離れると、桃地ヶ丘さんは宙に浮いているハートの結晶に飛びつき、食べ始めてしまった。
「ここまではっきり告白して、これだけ大規模な『波動結晶』に触れても全く伝わらないなんて……彼女の意識はどれだけ食欲に傾いているのだろうな」
俺は相乃の傍に立ち、そのように語りかける。
相乃はくすりと笑い、「本当にね」と頷いた。
「あーあ、やっぱり駄目だったかぁ……もっと直接的に『恋人』になってくださいって言うべきだったかなぁ」
「今からでも遅くないと思うぞ。もう一度、このイリュージョンをやってみせようか?」
「ううん、いい。やっぱり、もっちーにとって私は友だちでしかなくて、恋心は一切ないって分かったから。今回はもっちーの心に何も残せなかったけど……でもこれから、少しずつ進んで行こうと思う」
「そうか。それがいいのかもしれないな。しかし、何も残せなかったというのは違うと思うぞ。好物を目の前にしたら声すら聞こえなくなるほど夢中になっていたのに、今回、君に感謝を述べるために引き返したではないか。だから俺は、今日この瞬間、最初の一歩を踏み出したのだと思う」
「最初の……そうか……そうだよね。良いこと言うねぇ、愛多知君!」
朗らかにそう言った相乃は、おもむろに一歩前へと踏み出す。
俺の正面までやってくると、わざわざ体を真っ直ぐ向け、鮮やかな笑顔を浮かべた。
「愛多知君、本当にありがとう。心から感謝するよ。思えば、本当の私のことを知って、それでも離れずにいてくれたのは……君が初めてだよ」
夕陽に照らし出された涙の痕が、薄っすらと輝いている。
彼女の笑顔は何かから解放されたかのように清々しく、暖かい。
それはまさしく俺の人生で一番の笑顔で、とても清らかで、美しくて――
と、そこで、パァン! と何かが弾けるような音がなった。
「えっ、突然なに? ど、どうしたのそれ?」
相乃の視線を辿って自分の体を見下ろすと、服がびりびりに破けていた。
まるで愛を暴走させてしまったかのような有様だ。
なんだ? えっ? これは一体どういうことだ? 俺の心に何が起こった?
「あっ! 愛多知君、あれ!」
混乱して体中を見回している俺の目の前に相乃の人差し指が突き出される。
その方向に目を向けると、山が二つ見えた。以前、俺たちが桃色に染め上げた山だ。
その山たちは距離が離れており、繋がっているわけではない。
だが、この場所から見ると重なり合っており――
繋がった桃色の斜面が、見事なハートマークを作り上げていた。




