第26話 黒幕の顔
――前回のあらすじ――
南郡から、黄申と名乗る商人が探りに来た。俺は調べていることをあえて認め、相手の逃げ口上を罠に変え、脅しを情報に変えた。黄申は尻尾を出した。豊隆号は、間違いなく襲撃に噛んでいる。だがその背後の「ある御方」は悪意ではなく、歪んだ正義で動いているかもしれない。損得で動かぬ相手を、どう崩すか。俺がその答えを探しあぐねていたとき、伊籍が糸の先を手繰り当ててきた。
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伊籍が李家に駆け込んできたのは、黄申が去ってからわずか三日後だった。
いつも飄々としているこの男が、息を切らしていた。それだけで、ただ事ではないとわかった。
「李どの」伊籍は座るのも忘れて言った。「糸の先が、見えました」
俺は思わず立ち上がった。
「豊隆号を洗いました。あの商家、表向きは絹と薬種の大店です。ですが帳簿の裏に、もう一つの顔がある」伊籍は声を落とした。「銭を貸している。それも、荊州じゅうの役人や豪族に。膨大な額を」
「金貸し、か」
「ええ。そして金を貸した相手の弱みを握っている。誰がいくら借りているか。誰が返せずにいるか。……荊州のお偉方の首根っこを、豊隆号は銭の糸で握っているのです」
俺は息を呑んだ。
なるほど。賊を雇う銭も、武器を揃える伝手も、すべてそこから来ていた。豊隆号は、ただの商家じゃない。荊州の裏の金庫であり、弱みの台帳だ。
「ではその豊隆号を、動かしている『御方』とは」
伊籍はしばらく黙った。
それからひとつの名を口にした。
「蒯越どの。字は異度」
俺の頭の中で、ゲームの記録がめくれた。
蒯越。荊州の名門・蒯氏の出。劉表が荊州に入ったとき、その地盤固めを支えた知恵袋。荊州を平らかに保つために、誰よりも働いてきた男。後の世で曹操が荊州を得たとき、「荊州を得たより蒯越を得たことが嬉しい」と言わしめたほどの人物だ。
Aレア、いやSSレアに届く大物。
その男が、黒幕。
―――
「待ってくれ」俺はこめかみを押さえた。「蒯越といえば、劉表さまの右腕だ。荊州をまとめた功臣。……なぜ、そんな男が賊を使って、うちみたいな商家を襲わせる」
「そこです」伊籍の顔が曇った。「わたしにも、最初は信じられなかった。ですが調べるほどに――蒯越どのの動きが見えてきた」
伊籍は語った。
蒯越は荊州の平らかさを、何より重んじる男だ。劉表と同じく。いや、劉表以上に。彼は、この州が戦乱から守られていることを、自分の生涯の功績としている。
その彼にとって、近ごろ襄陽に現れたひとりの若者が、目障りだった。
賊を戦わずして退け、宜城の水争いを収め、劉表に召された、商家の次男坊。
俺だ。
「蒯越どのはおそらく、こう見ている」伊籍は言った。「この若者は、危うい、と。短い間に、人望を、集めすぎている。配下も、増えている。武人まで、抱えはじめた。……荊州の平らかさをいつか、乱す、芽になるかもしれない、と」
俺は苦笑した。
黄申が最後に、言った言葉。荊州は平らかな、よい州だ。その平らかさは、余計なことを詮索せぬ者に与えられる。あれは脅しであると同時に、蒯越の本心の代弁だったのだ。
「つまりあの襲撃は」
「あなたを潰すためのものでした。芽のうちに。賊に襄陽を襲わせ、李家を丸ごと消す。そうすれば誰も傷つかず――いや、李家一族は傷つきますが、蒯越どのにとっては、それは荊州の平らかさのための必要な犠牲なのでしょう」
俺はしばらく言葉が出なかった。
歪んだ正義。
まさに、そのものだった。蒯越は悪人じゃない。私腹を肥やすためでも、ない。ただ荊州の平和という大きなものを守るために、李家という小さなものを切り捨てようとした。
彼の中では、それは正しいことなのだ。
だからこそ――いちばん厄介だった。
―――
その夜、俺は眠れなかった。
蒯越を、どう崩すか。
これまでの敵は、心の芯を突けば崩せた。黄忠は、武人の誇りを。徐庶は、民への仁を。裴牛は、仲間の命を。彼らのいちばん固い芯に触れることで、俺は縁を結んできた。
だが蒯越の芯は――荊州の平らかさ、だ。
その芯を突いて、どうなる。蒯越は荊州を平らかに保つために、俺を消そうとしている。彼の芯と俺の存在が、真っ向からぶつかっている。芯を突けば突くほど、彼は俺を敵と見なす。
力では勝てない。蒯越は荊州の半分を、動かせる、大物だ。
知略でも、分が悪い。相手は荊州を、まとめた、知恵袋。年季が、違う。
ではどうする。
俺は闇の中で天井を見つめながら、考え続けた。前世の営業でいちばん、難しかったのはどんな、相手だったか。値切る、相手でも、ない。怒る、相手でも、ない。いちばん、難しかったのは――「お前は要らない」と信じ込んでいる、相手だ。
商品の良し悪し、以前に「お前から、買う、理由がない」と決めている、客。
あれを、どう、ひっくり返したか。
俺ははっと、目を、見開いた。
そうだ。あのときも、俺は商品を、売り込まなかった。代わりに――相手の課題を、解決して、みせたんだ。「あなたのいちばんの悩みを私が、片づけます」と。要らない、と思っていた相手がいちばん、欲しがっていた、ものを差し出す。
蒯越のいちばんの、悩みは、何だ。
荊州の、平らかさ。それを、脅かす、もの。蒯越は俺をその、脅威だと、思っている。
ならば――俺がその脅威じゃないと証明すれば、いい。いやそれ以上だ。俺が荊州の平らかさを守る、味方だと蒯越自身に認めさせれば、いい。
敵だと思っていた、相手が実はいちばんの味方だった。
それを、見せつける。
―――
翌朝、俺は伊籍を呼んだ。
「機伯どの。蒯越どのに、会いたい」
伊籍はぎょっとした。
「会う、と? 正気ですか。相手はあなたを消そうとしている、御方ですぞ」
「だからこそ、だ」俺は言った。「向こうは俺を顔も見ずに危ない芽だと、決めつけてる。なら、顔を、見せてやればいい。芽じゃない、味方だとわかる、顔を」
「しかし、どうやって――」
「機伯どの。一つ、頼みがある」俺は伊籍をまっすぐ見た。「蒯越どのに、こう、伝えてほしい。『李家の次男が荊州の平らかさを乱す者の正体を、掴んだ。お引き合わせしたい』と」
伊籍が眉を、ひそめた。
「乱す者の正体? それはいったい――」
「黄申だよ」俺はにやりと、笑った。「いや正確には黄申のような、やり方そのものだ」
俺は頭の中で組み上げた、絵を伊籍に話した。
聞き終えた伊籍の顔から、血の気が引き、やがてゆっくりと驚嘆の色に変わっていった。
「……あなたは」伊籍はかすれた声で言った。「蒯越どのの刃を、そのまま蒯越どのに向け返すつもりか」
「人聞きが悪いな」俺は肩をすくめた。「ただ、本当のことを見てもらうだけだ。蒯越どのがいちばん大事にしてる、荊州の平らかさ。それを本当に脅かしてるのは、誰か。……俺じゃない、ってことを」
―――
数日後。
俺は襄陽の、とある屋敷の客間に座っていた。
蒯越の滞在先だった。彼は政務で、ときおり襄陽に上がる。伊籍がその機を捉えて、引き合わせの席を整えてくれた。
向かいに座る男を、俺ははじめて見た。
六十、近いだろうか。痩せて背が高く、白髪をきれいに結っている。穏やかな、けれど底の見えない目。劉表の深さとは、また違う。劉表が静かな湖なら、蒯越は底に刃を沈めた井戸だった。
「李子徹どの」蒯越の声は低く、落ち着いていた。「機伯から聞いた。荊州の平らかさを乱す者の正体を掴んだ、と」
「はい」俺は頭を下げた。
「ほう。聞かせてもらおう」蒯越はわずかに目を細めた。「誰だ。荊州を乱す者とは」
来た。
俺は深く息を吸った。ここからが、本番だ。前世のすべての商談を、この一席に注ぎ込む。
「銭で人の首根っこを握り、賊を雇い、気に入らぬ芽を闇に葬る。……そういうやり方をする者が、荊州におります」俺はまっすぐ蒯越を見た。「それが荊州の平らかさを、いちばん深く蝕んでいる。私は、そう考えます」
蒯越の目がぴくりと動いた。
俺が自分のことを言っていると、気づいたのだ。だが彼は表情を崩さなかった。さすが荊州の知恵袋。この程度では揺らがない。
「……ほう。して、その者の名は」
「名は申しません」俺は言った。
蒯越の眉が、上がった。
「名を申せば、それはただの密告に、なる。私は、密告に、来たのではない」俺は続けた。「私は蒯越どのに一つ、お尋ねしたくて、参りました。荊州の平らかさとはいったい、何でできているのか、を」
―――
蒯越はしばらく俺を見つめていた。
それからゆっくりと言った。
「面白い、若者だ。……答えて、みよ。そなたは何でできていると思う」
「人の、信頼です」俺は即座に答えた。「平らかな、州とは民がお上を信じ、お上が民を信じている、州のことです。その信頼があるかぎり、人は刃を、取らない。……ですが、もし。お上が銭で人を縛り、賊を使って、邪魔者を消すような、ことをすれば」
俺は声を強めた。
「その噂は、必ず漏れます。今日、私がそれを掴んだように。そして噂が広がれば――民はお上を信じなくなる。お上同士も、互いを疑い出す。荊州の平らかさは、刃で崩れるのではない。信頼が欠けた、その瞬間に内側から崩れるのです」
蒯越は無言だった。
だが、その底の見えない目に、はじめてかすかな揺らぎが走ったのを、俺は見逃さなかった。
「私は商家の次男です」俺は頭を下げた。「力も地位も、ありません。ですが、一つだけ得意なことがあります。人の信頼を繋ぐこと。賊を殺さず、味方に変え。争う二人を、共に立たせ。……私がやってきたのは、それだけです。荊州を乱すどころか、私は、荊州の平らかさを繋ぐ糸の一本になりたいと願っています」
しん、と客間が静まった。
長い、沈黙だった。
やがて蒯越が口を開いた。
「……そなた」蒯越の声は低かった。「わしが誰か、知っておるな」
俺は顔を上げ、まっすぐその目を見返した。
「存じております」
「知っていて、なお名を申さぬか」
「はい。なぜなら――蒯越どのは、荊州を乱す者ではないと信じたいからです」俺は言った。「あなたは荊州を平らかに保つために、生涯を捧げてこられた。そのやり方が、ときに刃を帯びることがあったとしても。その根が荊州への想いだということを、私は疑いません」
蒯越の目が、見開かれた。
「だから私は、あなたを敵だとは思いません」俺は言った。「同じものを守りたい味方だと、思っています。……ただ、守り方が違うだけだ。あなたは、芽を摘んで守る。私は、糸を繋いで守る。それなら――一度、私の守り方を試してみては、いただけませんか」
―――
蒯越は長いこと俺を見つめていた。
その目から、底の見えない暗さが、少しずつ薄れていった。代わりに、何か遠い昔を懐かしむような色が、滲んだ。
「……若いころのわしを見ているようだ」蒯越はぽつりと言った。「わしもかつては、そう信じていた。人の信頼で州は保たれる、と。……だが、長く生きるうちに、わしは人を信じることに疲れた。信頼より、銭と弱みのほうが確かだと思うようになった。そのほうが、楽だった」
「疲れたのは」俺は静かに言った。「あなたが一人で荊州を背負ってこられたからです。一人で守ろうとすれば、誰も信じられなくなる。当たり前です」
「……」
「ですが、もう一人ではありません」俺は言った。「私が、います。私の配下も、います。荊州を平らかに保ちたいと願う者は、あなただけではない。荷を半分、私に預けてくださって構わないのです」
蒯越の肩がわずかに震えた。
六十年、誰にも預けてこなかった荷の重さが、その震えに滲んでいた。
胸の奥で、システムが静かに告げた。
【蒯越 信頼度:8 → 64】
警戒から、一気に協力的の領域へ。
だが、まだ配下化には遠い。当然だ。六十年固めてきた心の鎧が、一席の話で解けるはずもない。これは、ほんの入り口にすぎない。
それでも――敵が敵でなくなった。それだけで、十分すぎる収穫だった。
―――
蒯越は立ち上がった。
「李子徹どの」蒯越は言った。「黄申に伝えておく。李家に二度と手を出すな、と」
俺は深く頭を下げた。
「……一つ、聞かせろ」蒯越は戸口で足を止めた。「そなた、わしの刃が、わし自身に向くことを恐れなかったのか。一歩間違えば、そなたはこの場で消されていた」
「恐れましたよ」俺は正直に言った。「ですが、賭けました。蒯越どのが本当に荊州を想う御方なら、私の言葉が届くはずだ、と。……届かなければ、それまで。賭けに負けた私が悪い」
蒯越はふっと笑った。
はじめて見せた笑みだった。底の見えない井戸の水面に、一瞬光が差したような。
「……末恐ろしい若者だ」
その言葉は、伊籍も劉表も口にした言葉だった。荊州の賢者たちが揃って俺に贈る、言葉。
悪い気は、しなかった。
―――
屋敷を出ると、伊籍が待っていた。
俺の顔を見るなり、ほっと息を吐いた。生きて出てきたことに、心底安堵したらしい。
「……どう、なりました」
「敵が一人減って、味方が一人増えた」俺は笑った。「いつものことだよ」
「いつものこと、とあなたは言うが」伊籍は首を振った。「荊州の知恵袋を相手に、それをやってのける者はあなたしかおらん」
俺たちは並んで歩いた。
日が傾き、襄陽の町並みが夕陽に染まっていた。さっきまで命の瀬戸際にいたとは思えない、穏やかな夕暮れだった。
俺はふと思った。
黒幕の顔を見た。そしてその顔は――鬼でも悪鬼でもなかった。荊州を想いすぎて疲れ果てた、一人の老人の顔だった。
敵のいちばん固い芯。蒯越のそれは、荊州への想いだった。突けばぶつかると思っていた、その芯に、俺は寄り添うことで触れた。突くのではなく、同じものを守る味方として。
これも、一つの知略なのかもしれない。
いや――知略、というより。
ただ、相手をちゃんと見た。それだけだ。前世から、ずっと俺がやってきた、たった一つのこと。
「機伯どの」俺は言った。「ありがとう。あなたがいなけりゃ、蒯越どのには辿り着けなかった」
「礼を言うのはこちらです」伊籍は穏やかに言った。「あなたは荊州から、一つ争いの火種を消した。……劉表さまもお喜びになるでしょう」
俺は空を見上げた。
糸がまた一本、増えた。今度は、荊州でいちばん太い糸の一本かもしれない。
ありがてぇ、と俺は夕陽に呟いた。
やれやれ。商家の次男坊にしては、ずいぶん遠くまで来たもんだ。
(第26話・了)




