第22話 州の主
――前回のあらすじ――
伊籍が「宿題」として持ち込んだ宜城の水争いを、俺は知恵だけで収めた。一つの水を奪い合うから争いになる。なら水路を二つに割ればいい。誰も殺さず、誰も英雄にせず、誰も悪者にせず。豪農・馬季が本当に欲しがっていた「人望」を差し出すことで、争いは終わった。伊籍の信頼は、配下化の一歩手前まで深まった。そして数日後、その伊籍が四度目の来訪で、これまでとは違う言葉を口にする。
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「李どの。劉景升さまが、あなたに会いたいと仰せです」
伊籍が四度目にそう告げたとき、俺は危うく茶碗を取り落とすところだった。
劉景升。劉表。荊州牧。
この州そのものを治める最高権力者だ。前世のゲームでなら、何百回と顔を合わせた武将だ。だがそれは画面の中の話だ。実際に、この肉体で生身の州牧と対面するのは――まるでわけが違う。
「……マジか」
「は」
「いえ。あまりに急なお話でしたので」
俺はかろうじて声を整えた。営業時代、大企業の役員クラスとの面談が突然決まったときの、あの胃の縮む感覚を思い出していた。一介の商家の次男坊が州の主に呼ばれる。光栄であると同時に、これ以上ないほど危うい。
「なぜ、劉景升さまが、俺のような者を」
「宜城の話を、わたしがしたからです」伊籍は悪びれずに言った。「役所が動かぬ案件を、血も流さず銭も使わず、見事に収めた若者がいる、と。……劉景升さまは、人の話がお好きでしてな。とりわけご自分の手の届かぬところで、誰かが上手くやった話を」
俺は内心唸った。
この男は、俺を売り込んだのだ。荊州の主に。それは、伊籍が俺を本気で「使える人間」と見定めた証でもある。信頼度78の意味が、ここで形になった。
ありがたい。だが同時に恐ろしい。
―――
劉表に会う、ということの重みを、俺は前世の知識で痛いほど理解していた。
劉表という男は、暗君ではない。むしろ文人としては一流だ。荊州を、戦乱の世にあって奇跡のように平穏に保ってきた。学問を奨励し、流れてきた名士たちを庇護した。後の世で「荊州学派」と呼ばれる文化の土壌は、この男が育てたものだ。
だが――決断が遅い。
慎重で安定を好み、危険を冒さない。だからこそ荊州は平和だったが、だからこそ、後に天下の趨勢から取り残されることになる。曹操が来たとき、劉表はもうこの世になく、その息子は、ろくに戦わずに降伏した。
つまり劉表は「守りの名君」だ。
守りの名君がいちばん嫌うのは、何か。
波風だ。事を荒立てる者。野心を剥き出しにする者。荊州の安定を揺るがしかねない者。そういう人間を劉表は遠ざける。
「機伯どの」俺は慎重に尋ねた。「劉景升さまは、俺に何を期待しておられるのでしょう」
「さて」伊籍は薄く笑った。「それは、お会いになればわかります。……ひとつだけ、申し上げておきましょう。劉景升さまは、賢い若者を好みますが、賢すぎる若者は警戒なさる」
俺はその言葉を胸に刻んだ。
賢すぎる若者は警戒される。
つまり――手の内を全部は見せるな、ということだ。
―――
数日後。俺は襄陽の州牧府に上がった。
生まれてはじめて見る、権力の中枢だった。
門をくぐると、磨き上げられた石畳が、まっすぐ正殿へと延びていた。両脇には、武装した衛兵が微動だにせず立っている。その奥に、瓦を幾重にも葺いた見上げるほどの建物。荊州の富と歴史の重みが、そのまま石と木になったような場所だった。
俺は襟を正した。
借り物の、上等な絹の衣だ。父・李潤が、息子の晴れの日のためにと、奮発して仕立ててくれた。家を出るとき、父は何度も衣の皺を直し、最後に、ぽつりと言った。「お前は、もうただの次男坊ではないのだな」と。その声に誇りと、寂しさが、半分ずつ混じっていた。
兄・李澄は、何も言わなかった。ただ門のところで、俺の肩を一度だけ、軽く叩いた。
綾は泣きそうな顔で指切りをした。「ちゃんと帰ってきてね」と。俺は笑って約束した。
その全部を、俺は絹の衣の内側にしまって歩いた。
―――
正殿に通されると、上座に一人の男が座っていた。
劉表だった。
六十に近い。だが老いてはいなかった。背筋はまっすぐで、面長の品のいい顔立ち。長い髭が、胸まで垂れている。その目は穏やかで、けれど、どこか、すべてを見透かすような深さがあった。
俺は教わった通りの作法で、深く拝礼した。
「荊州の商家、李家が次男、李明。字を子徹と申します。御前に召されましたこと、恐悦至極に存じます」
「面を上げよ」
声は思いのほか柔らかかった。
俺はゆっくりと顔を上げた。劉表の深い目と、まっすぐにぶつかった。
「そなたが、宜城の水争いを収めた李家の若者か」劉表はゆったりと言った。「機伯から、話は聞いておる。なかなか面白い手を使ったそうだな」
「お恥ずかしい限りです」俺は頭を低く保った。「ただ争う二人の、譲れぬものを、それぞれ、守っただけにございます」
「譲れぬものを、守る」劉表はその言葉を、ゆっくりと繰り返した。「ふむ。……して、そなた。馬季と欒、どちらの味方をした」
来た。
俺は背筋に、すっと緊張が走るのを感じた。
これは、試問だ。劉表は俺がどちらの肩を持ったかを聞いている。豪農の馬季か、小作の欒か。だが――この問いに正面から答えるのは、罠だ。
前世で何度も経験した。商談の席で、取引先の役員が、世間話のような顔で核心を突いてくる。「御社は、A社とB社、どちらと組むつもりですか」と。あの問いに正直に答えた営業マンから、順番に消えていった。本当に聞かれているのは、答えそのものではない。その答えを、どう選ぶ人間か、だ。
馬季の味方をした、と言えば、劉表は「権力におもねる若者」と見るかもしれない。欒の味方をした、と言えば「弱き者に肩入れする、危うい正義漢」と見るかもしれない。守りの名君が警戒するのは、どちらにも偏った、波風を立てる人間だ。
俺は答えた。
「どちらの味方も、しておりません」
劉表の眉が、わずかに動いた。
「俺が味方をしたのは、宜城という町そのものにございます」俺は言葉を選びながら続けた。「馬季が栄えても、欒が滅べば、町は荒れます。欒が栄えても、馬季が恨めば、町は乱れます。……どちらか一方が勝つ限り、町はいつまでも、平らかにはなりません。俺はただ町が平らかであることだけを願いました」
しん、と、正殿が静まった。
俺は内心賭けたなと思った。
これは、劉表がいちばん大切にしている価値観だ。荊州の安定。平らかであること。波風を立てないこと。俺は宜城の話を、劉表自身の統治哲学に、そっと重ねてみせた。
お前の州を、お前のやり方で小さく真似てみました――そう、言外に告げた。
劉表は長いこと、俺を見つめていた。
やがてその口元が、かすかにゆるんだ。
「……平らかであること、か」劉表はぽつりと言った。「若いに似合わず、よう、わかっておる」
―――
俺はほっと、息を吐きたくなるのを、こらえた。
まだだ。試問は終わっていない。守りの名君は、簡単には心を許さない。
案の定劉表は次の問いを放った。
「では、李明。そなたに、ひとつ尋ねたい」劉表の目が、ふいに鋭くなった。「この荊州を平らかに保つには、何がいちばん肝要だと思うか」
二問目。
しかも、今度は宜城のような小さな町の話ではない。荊州そのものの話だ。一州の統治を、どう見るか。俺の器そのものを、量る問いだった。
俺は考えた。
ここで、前世の知識を振りかざすことは、できる。曹操が、いずれ南下してくること。劉表の死後、荊州が、戦わずして降ること。それを防ぐには、今のうちに後継者を定め、軍備を整え――。
だがそれを言えば終わりだ。
賢すぎる若者は警戒される。荊州の平和に満足しきっている老いた名君に、「いずれこの州は滅ぶ」と告げることほど、波風を立てる行いはない。
俺は知識を飲み込んだ。
代わりに、ずっと本当に、そう思っていたことを言った。
「人にございます」
「人」
「城は、攻められれば落ちます。兵は、戦えば死にます。蔵の米は、いつか、尽きます。……ですが人は、違います。一人の優れた人が十人を育て、十人が百人を育てる。人だけが、増えてゆくものにございます」俺はまっすぐ劉表を見た。「荊州を、平らかに保つもの。それは、城でも、兵でも、米でもなく、人を見て、人を育て、人を活かす――その仕組みにございます」
俺はこの答えに、前世のすべてを込めた。十六年、営業の現場で人を見続けてきた。優秀な後輩が育っていく姿。潰れていく姿。会社という器を、最後に強くするのも、弱くするのも、結局は人だった。城でも、製品でも、資本でもない。人だ。それだけは、千八百年の時を、隔てても、変わらない、真実だと、俺は信じていた。
俺は言いながら、傍らに控える、伊籍をちらりと見た。
人を見て、人を繋ぐ。それは、まさに、伊籍が生涯をかけてやってきたことだ。俺は劉表の前で、伊籍の仕事を荊州統治の要として、持ち上げた。
伊籍の目が、わずかに見開かれた。
そして劉表が声を上げて、笑った。
「ははは。……機伯。そなたが、この若者を気に入った理由が、わかったわ」劉表は髭を撫でながら楽しげに言った。「人、か。よう、言うた。……李明。そなた、商人にしておくには、惜しいな」
―――
俺の視界の隅に、はじめて見る表示が灯った。劉表の信頼度。いきなり四十。中立の上のほう。
州の主に、はじめて会って、たった二問の問答で、警戒を抜け、中立の上まで来た。悪くない。いや――出来すぎだ。
だが俺は浮かれなかった。
四十は、好意ではない。あくまで中立だ。守りの名君は、面白い若者を面白がっているだけ。まだ、信じてはいない。ここから先、好意的、協力的へと進むには、何度もこの目に適い続けなければならない。
「もったいなきお言葉にございます」俺は再び頭を下げた。
「李明」劉表がふと声の調子を、変えた。「そなた、わしのもとで、働く気は、ないか」
――来た。
俺の心臓が、跳ねた。
仕官の、誘いだ。州牧・劉表が直々に俺を召し抱えようとしている。前世なら、夢のような話だ。荊州の中枢に一気に食い込める。傍らで、伊籍が息を呑むのが、わかった。この男も、まさか初対面で、主君が仕官を持ちかけるとは、思っていなかったらしい。それだけ、俺の答えが、劉表の琴線に、触れたということだ。
だが。
俺は一瞬で頭の中で算盤を弾いた。
劉表に仕える。それは安定を意味する。荊州の平和の内側に入る。だが――それは同時に、劉表の運命に縛られることでもある。この州は、いずれ戦わずして、曹操の手に落ちる。その内側にいれば、俺もまた、その流れに飲み込まれる。
それに、何より。
俺のゴールは、荊州の一官吏に収まることではない。
「身に余る、お言葉にございます」俺は慎重に言葉を選んだ。「ですが――今しばらくお待ちいただけませんでしょうか」
劉表の眉が、上がった。
断るのではない。受けるのでもない。保留する。これが、いちばん危うい返事だ。州の主の誘いを、その場で即答しない。普通なら不興を買う。
「ほう。なぜ即答せぬ」
「俺はまだ、あまりに未熟だからにございます」俺は頭を下げたまま言った。「宜城の一件で、少し名が知れました。ですがそれは、たまたま上手くいっただけのこと。今の俺が御前に仕えれば、いずれ必ず、ぼろが出ます。……俺はもう少し、市井で人を見、人と交わり、己を磨きたいのです。御前にお仕えするに、恥じぬ人間になってから」
これも、半分は本音だった。
俺はまだ、この世界での立ち位置が、定まっていない。劉表に仕えるか、別の道を行くか。それを決めるには、早すぎる。だから時間を稼ぐ。
そしてもう半分は――守りの名君の心を読んだ計算だった。
慎重な劉表は慎重な若者を嫌わない。むしろ好む。野心を剥き出しにして、すぐ高い地位を求める者より、己の未熟をわきまえ、地道に力を蓄えようとする者を信じる。
劉表はしばらく黙っていた。
それからゆっくりと頷いた。
「……よかろう」劉表は穏やかに言った。「己を知る者は伸びる。急いて芽を摘むまい。李明、励め。そなたが、わしに仕えたいと思うたとき、いつでも門は開いておる」
【劉表 信頼度:40 → 51】
保留が、信頼を上げた。
俺は心の中で、ひゅうと口笛を吹いた。これが、守りの名君だ。即答する野心家より、保留する慎重派を信じる。読みは当たった。
―――
州牧府を辞して門を出ると、伊籍が追いかけてきた。
「李どの」伊籍はいつになく興奮した様子だった。「あなたは、いったい何を考えておられる」
「と、言いますと」
「劉景升さまの、仕官の誘いを断る者など、見たことがない。それも、あの、お喜びになる断り方を。……あなたは、はじめから、ああ答えると決めておられたのか」
俺は笑った。
「いいえ。御前を見て、決めました」俺は正直に言った。「あの方は、急ぐ者を信じない。だから急がない、と、お見せしただけです」
伊籍はしばらく絶句していた。
それから深く息を吐いて、首を振った。
「……末恐ろしい御方だ」
その言葉に、皮肉は、なかった。ただ純粋な驚嘆だけが、あった。
【伊籍 信頼度:78 → 85】
配下化の領域。
劉表に仕えるこの男の信頼度が、ついに八十を超えた。配下にできる。だが――俺はその権利を、まだ使わなかった。
伊籍は劉表のもとにいてこそ、価値がある。荊州の中枢に、俺の最も信頼できる目と耳が、置かれている。今引き抜くのは愚かだ。
縁は、結ぶ場所を選ぶ。
―――
家に帰ると、綾が門の前で待っていた。
日が暮れかけていた。十二歳の妹は、きっとずっと、ここで待っていたのだろう。俺の姿を見つけると、ぱっと顔を輝かせて駆けてきた。
「兄さま! 帰ってきた!」
「ああ。約束、しただろ」
「州牧さま、こわかった?」
「こわかったよ」俺は笑った。「でも、お前との指切りのほうが、こわい。破ったら、針千本、飲まされるからな」
綾がけらけらと笑った。
家に入ると、父が囲炉裏の前で待っていた。州牧府での顛末を話すと、父はしばらく黙って聞いていた。仕官を保留した、と告げたとき、父の顔に、一瞬、不安がよぎった。州の主の誘いを断るなど、商人の常識ではありえない。だが、なぜそうしたかを説明すると、父はゆっくりと頷いた。
「……お前は、わしの知らぬところを見ているのだな」父はぽつりと言った。「わしには、その是非はわからん。だが、お前がそう決めたなら、それでいい」
兄・李澄は、何も言わず、ただ俺に、一杯の酒を注いでくれた。それが、兄なりの労いだった。
その夜、俺はふと、空を見上げた。
今日、荊州のいちばん高いところに立つ男の、目に適った。仕官は、しなかった。だが門は開いた。いつでも入れる門が、一つできた。
第一段階――荊州実権掌握。
その遠いゴールへの道が、今日、はっきりと太くなった。力ではなく、人で。剣ではなく、言葉で。前世の、俺の本業で。
ありがてぇ、と俺は呟いた。
隣で、綾が「なあに?」と首を傾げた。
「なんでもない」俺は妹の頭に手を置いた。「ただ、いい一日だったな、って」
日が沈んだ。
明日も、また糸をたぐる。一本ずつ、確かに。
(第22話・了)




