第21話 名人の宿題
――前回のあらすじ――
黄巾を退けて名を上げた俺のもとに、劉表配下の人材登用の名手・伊籍が訪ねてきた。賊を殺さなかった本当の理由も、俺が何より恐れているものも、この男は一回の会話で見抜いた。配下にはできない。劉表に深く根を張っている。だが「ときどき人の話を聞かせてもらう」という細い縁を、俺は結んだ。荊州の中枢へ伸びた、たった一本の糸。それが思いがけず早く、たぐり寄せられることになる。
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伊籍が二度目に李家を訪れたのは、最初の来訪から、わずか五日後のことだった。
早い。
俺は門で彼を迎えながら、内心そう思った。前回、別れぎわに「ときどき人の話をしに参りましょう」と言われたとき、ときどきというのはせいぜい月に一度くらいの気分でいた。それが五日だ。荊州牧の懐に仕える多忙な能吏が、無名の商家にこの頻度で足を運ぶ。理由がないはずがない。
「お早いお越しで」
「ええ。実を申せば」伊籍は薄く笑った。「あなたに、ひとつ宿題を持ってまいりました」
宿題。
俺は背筋が、ほんのわずかに冷えるのを感じた。この男の「おもしろい」が再試験の通知だったように、この「宿題」もまた、ただの世間話ではない。
―――
客間に座ると伊籍はすぐには本題に入らなかった。
茶を一口含み、しばらく庭を眺め、それからようやく、ぽつりと切り出した。
「李どの。襄陽の東に、宜城という小さな町があるのをご存じか」
「名前だけは」
「そこで今ちょっとした揉め事が起きておりましてな。二人の男がひとつの水路をめぐって争っております」
水路。
俺は前世の記憶を、そっと探った。荊州、宜城、水路。歴史の表舞台には、まず出てこない規模の話だ。だがこういう小さな話ほど、人の本性が剥き出しになる。
「片方は、町でいちばん大きな田を持つ豪農でしてな。名を馬季といいます。もう片方は、その下流で田を耕す、二十戸ばかりの小作の束ねで、名を欒という男」
「水路を、どちらが使うかで揉めている」
「いや」伊籍は首を振った。「使うかではない。上流の馬季が自分の田に水を引くために新しく堰を作ろうとしておるのです。その堰ができれば、下流の欒たちの田には、水がほとんど届かなくなる」
ああ、と俺は唸った。
よくある話だ。前世でいうなら、上流の大企業が水源を独占して下流の中小がじり貧になる。商売の世界では、毎日どこかで起きている。
「馬季は堰を作る権利は自分にあると言う。実際その土地の証文も持っている。欒たちは、先祖代々あの水で田を耕してきた、今さら奪われては死ねと言う。証文はないが、慣例はある。……どちらの言い分にも理がある」
「役所は」
「動きません」伊籍は淡々と言った。「馬季は役人に付け届けを欠かさぬ男でしてな。役所にとって馬季は大事な納税者であり、欒たちは数のうちにも入らぬ小作です。放っておけば、堰は来月にも作られる。欒たちは、田を捨てて流民になるか、馬季に田を売って小作人に成り下がるか。二つに一つです」
俺は黙って話を聞いていた。
聞きながら、これは試験だなと確信していた。伊籍は俺に答えを求めているんじゃない。俺がこの話をどう捌くかを見たいのだ。
「機伯どの」俺は口を開いた。「ひとつ、確かめても」
「どうぞ」
「なぜ、この話を、俺に」
伊籍は待っていたように笑った。
「劉景升さまのもとには、この手の揉め事が毎日のように上がってまいります。そのすべてをわたしが裁けるわけではない。役所が動かぬ案件は宙に浮いたまま腐っていく。……ですが先日、あなたが言った。殺さずに済む戦を、ひとつでも増やしたい、と」
「言いました」
「これも戦です。血こそ流れぬが、放っておけば、欒たちは確実に死ぬ。流民になった者の、その先がどうなるか。あなたは黄巾を見たから、ご存じでしょう」
――食い詰めた農民が、賊になる。
裴牛に率いられて襄陽を襲った三百の賊。あの多くは、もとは田を追われた農民だった。欒たちが流民になれば、いつか同じ道をたどるかもしれない。今日の小さな水争いが、明日の黄巾になる。
「これは宿題です」伊籍は静かに言った。「あなたが、力ではなく知恵で人を殺さずに事を収められる人間なのか。それをわたしは見たい。……無論断ってくださっても構わない。これはあなたの戦ではないのですから」
―――
俺はしばらく考えた。
断ることはできる。これは李家の問題じゃない。宜城の水路など、放っておいても俺の暮らしには一切障らない。賢いやり方は、にっこり笑って「私の手には余ります」と言うことだ。
だがそれでは伊籍の宿題は零点だ。
そして――俺自身が、それでは面白くない。
前世で営業をやっていたころ、いちばん血が騒いだのは、誰もが「無理だ」と匙を投げた案件だった。上流と下流、大口と小口、どちらの顔も立てて、なおかつ両方に得をさせる。そんな絵が描けたとき、契約書の判子の音は、何より気持ちがよかった。
水争いも、同じだ。要は利害の調整だ。
「機伯どの」俺は顔を上げた。「その宿題、お受けします。ただし――答えを出すのは、俺ではありません」
「ほう」
「俺はお膳立てをするだけです。答えを出すのは、馬季と欒、その二人自身です」
伊籍の目が、すっと細くなった。今度は値踏みではなく、興味の色だった。
「面白いことをおっしゃる。続きを聞かせていただきたい」
「まだ頭の中だけです」俺は正直に言った。「一度、宜城をこの目で見てきます。話はそれからです」
―――
翌朝俺は徐庶と趙累を連れて宜城へ向かった。
石韜も連れていきたかったが、あいつは酒を飲ませると話が早い代わりに、相手に酔いつぶされると弱い。今回は素面の知恵がいる。馬上で揺られながら徐庶が口を開いた。
「子徹どの。なぜ、わざわざ我らを」
「徐庶には土地を見てほしい。水路と田の地形だ。趙累には人を見てほしい。欒の下にいる二十戸が、どういう連中なのか」
「子徹どのご自身は」
「俺は馬季に会う」俺は言った。「いちばん厄介な男に、いちばん先に会っておく。商談の鉄則だ」
趙累がふっと笑った。
「相変わらず面倒な側から手をつけなさる」
「面倒な側こそ、最初に潰しておかないとな。あとに残すと、必ずこじれる」
宜城は、思っていたより、貧しい町だった。
町の中心に、ひときわ立派な屋敷が一軒。あれが馬季の家だろう。そこから少し離れて、肩を寄せ合うように建つ、粗末な小屋の群れ。あれが欒たちの集落だ。屋敷と小屋を分けるように、一本の水路が走っている。今はまだ、その水路を、上流から下流へ水が流れている。
だが上流の馬季の田のあたりに土と石が積まれはじめているのが見えた。
堰の、作りかけだ。
「思ったより、早いな」俺は呟いた。「のんびりしてられない」
―――
馬季は太った男だった。
俺が李家の名を出すと思いのほか丁寧に迎え入れた。賊を退けた李家の次男――その噂は、この小さな町にも届いているらしい。馬季は酒と肴を並べさせ、上機嫌で語った。自分がいかにこの町に貢献しているか。いかに役所に信頼されているか。いかに欒たちが恩知らずな連中であるか。
俺はにこにこと聞いていた。
聞きながら、この男の「興味スイッチ」を探っていた。徐庶や黄忠のときのようにシステムが解放してくれるわけじゃない。馬季は配下にする相手じゃないからだ。だが人の心に鍵があるのは、配下だろうと敵だろうと同じだ。営業で覚えた。
馬季が本当に欲しいものは、何か。
「馬季どのは」俺は頃合いを見て口を挟んだ。「この町で、いちばんの分限者でいらっしゃる」
「まあ、おかげさまで」
「ですが――いちばんの分限者というのは、存外、寂しいものではありませんか」
馬季の手が、止まった。
「町の者は馬季どのを頼りにしている。けれど、心から慕っているかというと、どうでしょう。付け届けをし、頭を下げる。それは力に対してであって、人柄に対してではない。……違いますか」
馬季はしばらく黙っていた。
太った顔の、その奥で、何かが揺れたのが見えた。図星だ。この男は町でいちばんの金持ちでありながら町でいちばんの嫌われ者でもある。それを、本人がいちばんよく知っている。
俺は前世で何人もこういう客を見てきた。金を持ち、力を持ち、誰からも頭を下げられる。それでいてふとした瞬間に、ひどく寂しそうな顔をする経営者。彼らが本当に欲しいのは、次の契約でも利益でもない。誰かに、本心から「ありがとう」と言われることだ。
馬季も同じ顔をしていた。
「あんた、いったい、何が言いたい」馬季の声が、低くなった。
「堰のことです」俺はここではじめて本題を出した。「あの堰を作れば、馬季どのの田は潤う。けれど、下流の欒たちは干上がる。そして馬季どのは、町でいちばんの嫌われ者から、町でいちばんの恨まれ者になる」
「……」
「俺は商人です。だから勘定で物を申します。あの堰、作って得られる水と、失う人望と、どちらが高くつくか。馬季どのは、もう、お気づきなのではありませんか」
―――
馬季はすぐには答えなかった。
俺はそれ以上は押さなかった。押せば引く。営業の鉄則だ。種だけ蒔いて、その日は引き上げた。
集落のはずれで徐庶と趙累が待っていた。
「子徹どの」徐庶が地面に簡単な図を描いていた。「面白いことが、わかりました」
「面白いこと」
「この水路、もとは一本道です。ですが地形をよく見ると――ここに、古い分かれ道の跡がある」徐庶は図の一点を指した。「昔は水路が二股に分かれていた跡です。おそらく、何代も前に片方が埋まった」
「二股」
「ええ。もしこの埋まったほうを掘り返せば――上流から、二つの流れを作れる。一方を馬季の田へ、もう一方を欒たちの田へ」
俺はその図を、じっと見た。
心臓が、とんと跳ねた。
これだ。
水争いの本質は、「一つの水を二人で奪い合っている」ことだ。だからどちらかが勝てば、どちらかが負ける。ゼロサムだ。だがもし水路が二つになれば――奪い合う必要が、なくなる。馬季も欒も両方が水を得られる。
パイの取り合いを、やめさせる。パイを、二つにする。
前世で何度もやった手だ。
「だが」俺はすぐに冷静になった。「いいことばかりじゃないだろう。掘り返すには、人手がいる。誰が、その費用と労力を出す」
「そこが、子徹どのの腕の見せどころでしょう」徐庶がにやりと笑った。
趙累も口を開いた。
「欒の下の二十戸、見てまいりました。気骨のある連中です。馬季を恨んではいるが、町を捨てる気はない。腕も、ある。水路を掘る人手なら、いくらでも出せましょう」
人手は、欒たちが出す。
では、費用は。そして――馬季を、どう動かすか。
俺の頭の中で、契約書の絵が、少しずつ組み上がっていく。
―――
三日後。
俺は馬季と欒の二人を、宜城の役所ではなく、水路のほとりに呼び出した。
馬季は相変わらず不機嫌そうだった。欒は痩せた目つきの鋭い中年の男で、馬季を睨みつけていた。今にも掴みかからんばかりだ。間に徐庶と趙累が立っている。
「李どの」馬季が苛立った声を出した。「いったい、何の用だ。役所も通さず、こんなところへ」
「お二人に、提案があります」俺は徐庶が描いた図を、地面に広げた。「この水路、昔は二股だった。それを掘り返します」
馬季と欒が同時に図を覗き込んだ。
「二股に戻せば、上流から、二つの流れが作れる。一方は馬季どのの田へ。もう一方は欒どのたちの田へ。――堰は、要りません。お二人とも、水が得られる」
しばらく沈黙があった。
やがて欒が低い声で言った。
「……うまい話だな。だが誰が掘る。誰が、その金を出す」
「掘るのは、あなたたちです」俺は欒を見た。「あなたの下の二十戸が手を貸す。水路は、あなたたち自身のものになるんだ。自分の田に水を引く堀を、自分で掘る。当たり前のことでしょう」
欒の目が、わずかに動いた。
「金は」俺は今度は馬季を見た。「馬季どのが、出します」
「なぜ、わしが」馬季が声を荒げた。「下流の連中の水路を、なぜわしが」
「では、お尋ねします」俺は静かに言った。「馬季どの。あなたが堰を作れば、得られるのは田一枚分の水です。失うのは町じゅうの人望と、欒たちの恨みです。恨んだ二十戸が、明日、流民になり、賊になり、あなたの屋敷を襲わない保証は、どこにもない」
馬季の顔が、こわばった。
「賊、だと」
「黄巾を、ご存じでしょう」俺は声を落とした。「先日、襄陽を襲った三百。あれも、もとは田を追われた農民でした。人は、食えなくなれば、何でもする。守るものを失った人間ほど、恐ろしいものはない。……馬季どのの屋敷は立派だ。だが二十戸が本気で火をかければ、一晩で灰になる」
馬季の額に汗が浮いた。
脅しではない。事実だ。俺はその事実を、ただ並べただけだった。前世で覚えた、いちばん効く話法。本当のことを、相手が聞きたくない順番で並べる。さっき屋敷では聞きたい順に並べた。今度は逆だ。
俺は続けた。
「ですがもしあなたが、この水路を掘る金を出せば。――馬季どのは、堰を作らずに自分の田を潤し、おまけに、欒たちの田まで救った『町の恩人』になる。役所に付け届けをして得る信頼ではない。町の者が、心から頭を下げる人望が手に入る」
「……人望」
「あなたが、いちばん欲しかったものだ。違いますか」
馬季は長いこと、黙っていた。
俺は最初に屋敷で蒔いた種を、思い出していた。いちばんの分限者は、寂しい。あのとき揺れた、太った顔の奥のもの。それを、今もう一度、揺さぶった。
「……欒」馬季がぼそりと言った。「お前のところの連中、本当に掘れるのか」
「掘れるとも」欒はまだ警戒した目で、しかし、はっきりと答えた。「水さえ約束してくれるなら」
「水路の取り分は、半々だ」俺がすかさず割って入った。「上流から、きっちり二つに分ける。徐庶――」
「図の通りに、分水の堰を、ここに」徐庶が図の一点を指した。「これなら、どちらかが多く取ることはできません。雨の年も日照りの年も、必ず半々です」
欒が図を、食い入るように見た。
それからゆっくりと馬季に向き直った。
「……李どのの言う通りなら。おれは、あんたを恨むのを、やめる」
「ふん」馬季はそっぽを向いた。
だがその横顔は、最初に俺が屋敷で会ったときより、いくらか晴れていた。
―――
帰り道。
馬上で、徐庶が感心したように言った。
「子徹どの。見事なものでした。両方に得をさせた。誰一人、損をしておらぬ」
「いや」俺は首を振った。「全員、少しずつ損をしてる。馬季は金を出した。欒は汗を流した。役所は、付け届けの旨味をひとつ失う」
「では、なぜまとまった」
「全員が、いちばん失いたくないものだけは守れたからだ」俺は空を見上げた。「馬季は人望を、欒は田を守れた。人ってのは、得をしたいんじゃない。いちばん大事なものを、奪われたくないだけなんだ」
趙累がふっと笑った。
「商人の言葉ですな」
「……まあ、そんなところだ」
営業マンの言葉だよ、と胸の内だけで言い直した。徐庶が何か言いかけた俺の口元をちらと見たが、深くは問わなかった。
―――
数日後伊籍が三度目に李家を訪れた。
今度は宿題を持ってではなかった。
「宜城の話、聞きました」伊籍は客間に座るなり、いつになく晴れやかな顔をしていた。「馬季が人足に飯まで振る舞ったそうですな。あの吝嗇家が」
「人望ってのは、案外安い買い物なんですよ」俺は笑った。「金で買えるとわかれば、ああいう男は惜しまない」
伊籍はしばらく俺を見つめていた。
それからゆっくりと頭を下げた。深く。
「李どの。わたしは長く人を見てまいりましたが――あなたのような方は、はじめてです」
「買いかぶりです」
「いいえ」伊籍は顔を上げた。その目に、これまでとは違う光があった。「あなたは、人を殺さずに戦を収めた。それも誰も英雄にせず、誰も悪者にせず。……これは力では決してできぬことです」
胸の奥で、システムが静かに告げた。
【伊籍 信頼度:61 → 78】
協力的の、いちばん上。
あと一歩で、配下化の領域。劉表に仕えるこの男が配下になるとは、まだ思えない。だがその一歩手前まで、たしかに近づいた。
「機伯どの」俺はふと思いついて言った。「ひとつ、お礼を言わせてください」
「お礼」
「いい宿題でした。久しぶりに頭を使いました。……また、いただけますか」
伊籍は虚を突かれたような顔をした。
それから声を上げて笑った。
線の細い顔がくしゃりと崩れて、年相応の、人懐こい笑顔になった。
「李どの。あなたは、本当に――おもしろい」
その「おもしろい」は、もう、再試験の通知ではなかった。
窓の外で、綾がお春と一緒に、洗濯物を干していた。十二歳の妹の笑い声が風に乗って、客間まで届いてくる。
俺はその声を聞きながら思った。
残り、十四年。荊州実権掌握への道は、まだほんの入り口だ。だが糸は、一本から二本に増えた。一本目は、伊籍という人。二本目は――その伊籍が俺を信じはじめた、という事実だ。
人を動かすのに、ガチャは要らない。
いるのは、相手が何を恐れ、何を欲しているかを見抜く目だけだ。
それだけは前世から、ずっと俺の持ち物だった。
(第21話・了)




