第20話 名を聞きつけて来る者
――前回のあらすじ――
黄巾の残党を率いた猛将・裴牛を、黄忠の曲射と徐庶の分断策で打ち破った。戦死者はゼロ。降伏した賊の多くは食い詰めた農民で、俺は彼らに働き口を与えた。襄陽の外れで起きたこの小さな戦は、けれど確かに人の口を伝っていく。家に帰り、綾との約束を果たした俺のもとに、ひとつの噂が広がりはじめていた――荊州の李家の次男坊が、賊徒を一人も殺さずに退けたらしい、と。
――登場人物紹介――
【李家とその縁者】
・李明/字・子徹……本作の主人公。中身は四十二歳の独身営業マン・田中健一。死に戻りのRPGシステムを抱えて荊州襄陽の商家に転生した。
・李潤……明の父。李家の当主。信頼度94。
・陳氏……明の母。信頼度88。
・李澄……明の兄。剣を習う。信頼度92。
・李綾……明の妹、十二歳。メインヒロイン。信頼度100・完全解放。
・お春……李家の侍女、十七歳。信頼度75。
【配下の者たち】
・黄忠……弓の名手。Sレア。信頼度100・完全解放。
・徐庶……軍師。Aレア。信頼度100・完全解放。
・趙累……組織化の名手。Aレア。信頼度96。
・石韜……知略型で酒好き。Aレア。信頼度91。
・霍峻……守城の名将。Aレア。信頼度83。
・文聘……武人。Bレア。信頼度84。
・陳大……元官軍の兵士。Bレア。信頼度80。
・張小六……明の最初の配下。Dレア。信頼度90。
―――――――――――――――――
戦が終わって十日が過ぎた。
俺は朝、井戸端で顔を洗いながら自分の手のひらをぼんやり眺めていた。剣を握ったわけでも弓を引いたわけでもない。ただ人を動かし、配置し、待った。それだけで一人の猛将が縄を打たれ、三百からの賊が散った。
「マジで勝っちまったんだよなあ」
声に出してから、ですよねーと心の中で誰にともなく相槌を打つ。前世の俺なら契約一本取るのに三ヶ月も頭を下げ続けていた。それがこちらの世界では、十日前にちょっとした戦争に勝っている。人生というのは、やり直すと配られる札がまるで違う。
もっとも引いた札がいいわけじゃない。配り方を覚えただけだ。
手を拭いて顔を上げると、塀の向こうに人だかりが見えた。襄陽の城下では、ここしばらく李家の名がやけに飛び交っているらしい。賊を一人も殺さずに退けた家。降った者に飯を食わせた家。そういう話は、血の話より遠くまで歩いていく。俺はそれを半分ありがたく、半分うっとうしく聞いていた。
名声というのはステータスだ。数字だ。上がれば便利で、上がりすぎれば的になる。
現にこの十日で、家の空気は目に見えて変わった。父・李潤は俺を見る目にこれまでの「次男坊」を見る目とは違う色を混ぜるようになった。誇りと、わずかな戸惑い。自分の息子が、いつのまにか自分の知らない器になっていることへの、親の複雑な顔だ。兄・李澄に至っては、剣の稽古のあとで、ぽつりと「お前は、剣など要らんのだな」と言った。妬みではなかった。むしろ、肩の荷を半分下ろしたような声だった。
それが、俺には少し、こたえた。この家を守るのは、本当なら長男の役目だ。それを次男の俺が、死に戻りという反則を使ってかすめ取っているような、後ろめたさがある。
もっとも後ろめたさを噛みしめている暇は、あまりなかった。
「子徹さま」
お春が小走りにやってきた。十七の侍女は、このごろ俺を呼ぶ声に妙な遠慮が混じる。賊を退けてからこっち、家中の俺を見る目がひとつ変わったのを、本人は気づいていないつもりらしい。
「客人です。それも、ずいぶん身なりの整った」
「身なり」
「お役人かと。けれどお役人ほど偉そうにしておられません。門のところで、ご主人さまにではなく、子徹さまにお会いしたいと」
俺に。
胸の奥でシステムの気配がかすかに動いた。縁の予感。ガチャでも引かないかぎり出会わないはずの誰かが向こうから歩いてくるときの、あの匂いだ。
「やれやれ」
俺は襟を直した。営業マンだったころの癖だ。誰が来るかわからないときほど、まず身なりを整える。中身の勝負はそのあとでいい。
―――
客間に通された男は、思っていたより若かった。
三十の半ばといったところか。色の白い線の細い顔立ちで、けれど目だけはよく動く。部屋に入ってきた俺を、頭の天辺から足先までほんの一瞬で測った。値踏みではない。観察だ。物の値打ちを見るのに慣れた目つきを、俺は前世で嫌というほど見てきた。仕入れ担当の目だ。人を品定めして仕事を回す側の目だ。
男は座ったまま、軽く頭を下げた。
「伊籍と申します。字は機伯。荊州牧・劉景升さまにお仕えしております」
劉景升。劉表だ。
脳の奥で、二十五年やりこんだゲームの記録が一斉にめくれる。伊籍、字は機伯。劉表配下の文官にして、後に劉備へと仕える男。武勇で名を残した者ではない。人を見て、人を繋ぎ、人を引き上げる――そういう役回りの男だ。能吏。今でいうなら優秀な人事部長か、あるいはヘッドハンターか。
ステータスを当てるなら間違いなくAレア。武勇ではなく人材登用の名手として。
「李家の次男、李明と申します。字は子徹」
俺は前世で叩き込まれた角度で頭を下げた。深すぎず浅すぎず。相手の格を立てつつ、こちらを安売りしない角度。伊籍の目が、ほんのわずかに細くなった。
――値踏みされている。
わかる。この男は、俺の噂を聞いてやってきた。賊を殺さずに退けた次男坊とやらが、本当に頭の回る人間なのか、それともただ運がよかっただけの小僧なのか。それを確かめに来た。
「突然の来訪、ご無礼を」伊籍は穏やかに言った。「先日の一件、城下でも評判でしてな。三百の賊を、戦死者を出さずに退けた、と。しかも降った者には働き口まで与えたとか。……正直に申せば半分は眉に唾をつけて聞いておりました」
「半分は」
「ええ。残る半分は、もし本当なら一度会ってみたいと」
俺は笑いそうになるのをこらえた。営業の世界では、こういう客がいちばん厄介で、いちばん面白い。完全に疑っている客は門前払いで済む。完全に信じている客は、それはそれで扱いに困る。半分疑って半分期待している客――そういう相手こそ、こちらの腕の見せどころだ。
「眉唾だと思われたなら、それで結構です」俺は言った。「うまくいった戦の話ほど、あとから尾ひれがつくものですから」
「ほう」
「実のところたいしたことはしていません。賊の数を恐れて散らせただけです。殺さなかったのは仁のためではなく、殺す手間と恨みが、あとで高くつくと踏んだからで」
伊籍の目が、はっきりと動いた。
俺はわざときれいごとを引っ込めた。仁のために殺さなかった、と言えば伊籍は喜んだだろう。だが喜ばせるのは三流の答えだ。この男が見たいのは、俺がどこまで自分の手の内を冷静に勘定できるかだ。徳の仮面の下にどんな算盤が入っているか。
「……恨みが、高くつく」伊籍は俺の言葉を、噛みしめるように繰り返した。「商家のお生まれゆえか。利を読むのがお上手だ」
「商人ですから。戦も、商いの一種だと思っています」
―――
そこへお春が茶を運んできた。
伊籍はそれを一口含み、ふと思い出したように言った。
「ときに、李どの。城下で、もうひとつ妙な噂を聞きましてな」
「妙な噂」
「賊を退けたあと、降った者に働き口を与えた、と。その差配をしたのが李どのではなく、李どのの配下の若い男だと。なんでも、もとは賊の側にいた者を、わずか数日で人足の組頭に仕立て上げたとか」
趙累だ。
俺は内心ほうと唸った。伊籍はただ俺の噂を聞いて来たのではない。配下のことまで調べ上げて来た。組織化の名手・趙累が、降った農民を束ねて働かせている――その手際まで、この男は嗅ぎつけている。
人を見る目だけじゃない。人を使う者の周りを見る目もある。これはやはり、ただの能吏ではない。
「趙累と申す者です」俺は正直に答えた。「人を束ねるのが、俺などよりよほど上手い」
「ご自分の配下を、よほど、と」
「事実ですから。俺は人を見つけるのは得意ですが、束ねるのは下手です。だから束ねるのが上手い者を、近くに置いています」
伊籍が、はじめて、笑った。
線の細い顔がふっとゆるんで、その下から人懐こい表情が覗いた。さっきまでの値踏みの目が、すこし遠のいた。
「――おもしろい」
その一言に俺はシステムの数字が動くのを感じた。警戒から中立へ、さらにその上まで。一度の会話にしては悪くない。
伊籍はおそらく、まだ俺を測りきっていない。さっきの「おもしろい」は、合格点じゃない。再試験の通知だ。もっと見せてみろ、という。
「李どの」伊籍は茶碗を置いた。「ひとつ、不躾を承知でうかがいたい。あなたは、この先、何をなさるおつもりか」
来た。
営業でいうところの、ヒアリングの核心だ。相手が本当に知りたいことを、ようやく口にした。今日この男がここまで足を運んだ理由は、結局のところこの一問に集約される。賊を退けた次男坊は、ただ家を守りたいだけの坊ちゃんなのか。それとも、その先を見ている人間なのか。
俺は少し考えた。
考えながら、前世の最後の日を、ふと思い出していた。四十二歳、独身、営業部長代理。退職を控えた送別会の帰り道誰もいない部屋に帰って、ゲームの電源を入れた。あのとき俺は自分の人生に何の目的もないことを心のどこかで知っていた。だから三国志の世界に逃げ込んでいた。
今目的を問われている。逃げ込んだはずの世界から。
本音を言えば、ゴールは「天下統一して現代に帰る」だ。だがそれを言えば狂人だ。かといって「家を守りたいだけです」と言えば、伊籍はがっかりして帰る。この男が引き上げたいのは、家しか見ていない男ではない。
その中間に、本当のことがある。前世の俺が、ついぞ持てなかったものが。
「この乱世で」俺は言った。「殺さずに済む戦を、ひとつでも増やしたい」
伊籍の目が、止まった。
「賊を殺さなかったのは、仁のためではないと、さっき申しました。それは本当です。けれど――殺さずに済むなら、そのほうがいい。それも本当なんです。理屈と気持ちは、別に両立する」
「……」
「俺は人を殺すのが上手い人間にはなれません。なる気もない。でも、人を殺さずに勝つ方法を考えるのは、たぶん、得意なんです。だからこの乱世で、それをやれるだけやってみたい。荊州の片隅から、できる範囲で」
しん、と部屋が静まった。
俺は内心、言いすぎたかと思った。きれいごとが過ぎたかもしれない。だが不思議と、嘘は一切混ぜなかった。前世の営業で覚えた、いちばん効く話法――それは、本当のことを相手が聞きたい順番で並べることだ。
伊籍は長いこと黙っていた。
やがてゆっくりと息を吐いた。
「李どの。わたしは長く、人を見てまいりました」彼は静かに言った。「劉景升さまのもとで、誰を引き上げ、誰を遠ざけるか。そればかりを考えて生きてきた。……人を見る、というのは、結局のところ、その者が何を恐れているかを見ることだとわたしは思うております」
恐れているもの。
俺の背筋を、かすかな緊張が走った。この男は、人の弱みを見ている。
「あなたは、力を恐れていない。賊の数も相手の猛将も恐れていなかった。だから勝てた。――では何を恐れているのか。それがずっと、わからなかった」
伊籍は俺を、まっすぐ見た。
「今わかりました。あなたが恐れているのは、人を殺すことではない。人を殺さねばならない自分になってしまうことだ。違いますかな」
――マジか。
俺は危うく茶を吹くところだった。
当たっている。完全にではない。だが恐ろしく近い。俺がこの世界で何より避けたいのは、死に戻りで何度も人生をやり直すうちに、人を消耗品として数える人間になってしまうことだ。前世の俺は人を「案件」として数えることに、最後まで慣れなかった。慣れたくなかった。
それを初対面のこの男に、一回の会話で見抜かれた。
俺は黙って茶碗を持ち上げた。手の震えを隠すためだ。前世で何百という商談をこなしてきて相手の本音を読むことには自信があった。だが読まれる側に回ったのはひさしぶりだった。それも、これほど深いところまで。
伊籍はそれ以上は踏み込まなかった。見抜いたことを得意げにひけらかさない。そういう男だった。見抜いた上で黙っていられる。それは人の弱みを握って商売にする者の作法ではなく、人の弱みを預かって守る者の作法だった。
――この男は、敵に回したくないな。
俺は素直にそう思った。そして味方に引き入れるのもたぶん同じくらい難しい。劉表という主に深く根を張っている。
―――
「機伯どのは」俺はかろうじて声を整えた。「人事のお仕事が、よほどお好きと見える」
「好き、というより」伊籍は薄く笑った。「これしか取り柄がないのです。剣も握れず馬にも乗れぬ。ただ人を見て、人を繋ぐ。それだけで、ここまで生きてまいりました」
それだけで、と彼は言った。だが俺は知っている。乱世において、人を見て人を繋ぐ能力は、剣を百本握るより貴重だ。曹操が、劉備が、孫権が、最後に欲しがったのは武力ではない。人だ。人を見抜き、人を集める力だ。
目の前のこの男は、その力の塊なのだ。
「ひとつ、お話ししましょうか」伊籍は茶碗を撫でながら言った。「わたしには若いころ、ひとり友がおりました。武に秀で、志も高く、わたしなどよりよほど大きな器の男でした。わたしは、その男を然るべき人に引き合わせた。出世の道をつけてやったつもりだった」
「つもり」
「ええ。その男は引き上げられた先で、人を斬りすぎた。功を焦り、敵も味方も斬り、最後は味方に斬られて死にました。……わたしが繋いだ縁が、あの男を殺したのです」
俺は何も言えなかった。
「だからわたしは、それ以来、人を見るとき、その者が何を恐れているかを必ず見るようになりました。恐れを持たぬ者は、いつか必ず誰かを踏み潰す。恐れを知る者だけが、力を持っても人でいられる」
伊籍は俺を見た。さっきの値踏みの目ではない。もっと静かな目だった。
「李どの。あなたは、恐れを知っている。だからわたしは、今日ここまで足を運んだ甲斐があったと思うております」
俺は頭を下げるしかなかった。
ここで俺はシステムの興味スイッチを思い出した。伊籍に配下になってもらうには――いや、まだ早い。この男は劉表に仕えている。引き抜くという発想そのものが、今は危うい。
だが縁を結ぶことはできる。
「機伯どの」俺は背筋を伸ばした。「ひとつ、お願いがあります」
「ほう」
「俺は人を見つけるのは得意だとさっき申しました。けれど荊州という広い世界では、まだ井の中の蛙です。城下の外にどんな人がいるのか、ろくに知らない。……もし機伯どのさえよろしければ、ときどき、人の話を聞かせてもらえませんか。誰がどこで何をしているか。それを知るだけで、俺は強くなれる気がする」
伊籍は目を見開いた。
俺は内心、賭けたなと思った。これは無茶な頼みだ。劉表配下の能吏に、無名の商家の次男坊が、情報を寄越せと言っているに等しい。普通なら図々しいと一蹴される。
だが――この男は、人を繋ぐことに生きがいを感じる人間だ。誰かに「人を教えてくれ」と乞われることは、この男にとって最高の口説き文句のはずだ。
「……李どの」伊籍はゆっくりと言った。「あなたは、わたしの興味の引き方を、よくご存じだ」
「商いの癖です」
「ほう」
えいぎょう、と言いかけて飲み込んだ言葉を、伊籍は気に留めなかった。聞き慣れぬ符牒か何かと受け取ったらしい。
彼は立ち上がり、襟を正した。
「いいでしょう。ときどき、人の話をしに参りましょう。――ただし、ひとつ条件がある」
「条件」
「あなたの噂が、本物かどうか。これからも、わたしに確かめさせてもらう。今日のように」
【伊籍 信頼度:52 → 61】
好意的、を超えて協力的の入り口。
俺は頭を下げた。深く。今度は角度を計算しなかった。
―――
伊籍を門まで送ったあと、俺は塀にもたれて空を見上げた。
配下になったわけじゃない。信頼度はまだ61。だが荊州の中枢に繋がる細い糸が、たしかに一本、こちらに伸びてきた。劉表という、この州の主の懐へ。
第一段階――荊州実権掌握。
システムが告げる遠いゴールが、はじめて、ほんの少しだけ現実の輪郭を帯びた気がした。賊を退けるのは力の話だった。だが州を動かすのは人の話だ。誰と誰が繋がっているか。誰が誰を恐れ、誰が誰を欲しているか。その網の目を読む話だ。
そして網の目を読むのは、前世の俺の本業だった。
「やれること、増えてきたな」
俺は呟いた。
そのとき塀の向こうから、ぱたぱたと足音が近づいてきた。
「兄さま!」
綾だった。十二歳の妹が、息を切らして駆けてくる。手には一冊の竹簡を抱えている。
「いまの方、どなた? すごく、頭のよさそうな目をしてた」
「よく見てるな」俺は笑った。「人を見繕う名人だよ。荊州じゅうの人を知ってる」
「じゃあ、わたしのことも知ってるかな」
「お前のこと?」
綾は竹簡をぎゅっと抱えて、すこし得意げに胸を張った。
「だって、わたし、襄陽でいちばん本を読む十二歳だもの。兄さまが言ってくれたでしょ。置いていかないって。だからわたしも、ちゃんと賢くなってる」
――ああ。
胸の奥が、じんと熱くなった。死に戻りのこの世界で、何度やり直しても変わらないものがあるとすれば、それはきっと、この子のこういう顔だ。
「知ってるさ」俺は綾の頭にぽんと手を置いた。「荊州一の人事の名人でも、襄陽一の読書家の妹がいることまでは、まだ知らないだろうけどな」
「えへへ」
綾が笑った。
俺はもう一度、空を見上げた。乱世はまだ始まったばかりだ。残された寿命は十四年。ゴールまでの道は、気が遠くなるほど遠い。
だが今日、糸が一本増えた。
ありがてぇ、と俺は心の中で呟いた。誰にともなく。たぶん、この世界そのものに。
(第20話・了)




