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月曜の朝。カイ・レーヴェンは王立魔術法務団本部の正門前に立っていた。
見上げた。石造りの建物は、カイが知っている王都のどの建物よりも大きかった。門柱には王家の紋章が刻まれ、朝日を受けて金色に光っている。門を出入りする法務官たちは全員が正装で、全員が胸に所属章をつけていた。カイだけが何も持っていなかった。安い麻の上着と、昨日買ったばかりのブーツ。ブーツだけは新しかったが、それ以外のすべてがこの場に合っていなかった。
中に入ると、広い吹き抜けのロビーが広がっていた。磨き上げられた石の床に、自分の靴音だけが場違いに響く。天井は三階分の高さがあり、壁には歴代の筆頭法務官の肖像画が並んでいた。カイはそれを一枚ずつ見ながら歩いた。いつかここに自分の顔が並ぶとは、思っていなかった。ただ、ミーシャの治療費のことだけが頭にあった。
受付で名前を告げた。制服を着た受付の法務官が名簿を繰り、眉をひそめた。
「該当する名前がありませんが」
「レオン・ヴァルクの部下として来たんだけど」
「レオン上席の……少々お待ちください」
受付が困惑した顔で名簿を確認し直している時、後ろから声がかかった。
「レオンの新しい部下?」
振り返ると、黒髪を肩で切り揃えた女性が立っていた。補佐官の制服をきちんと着こなし、背筋がまっすぐ伸びている。落ち着いた目元と、有能さが滲む佇まい。カイより二、三歳年上に見えた。
「……そう、だと思う」
「思う?」
「月曜に来いって言われたから」
女性はカイの顔を見て、次に服を見て、もう一度顔に戻った。何かを判断したようだった。
「ミシェル・ヴェルデ。補佐官よ。案内するわ」
歩き出したミシェルの後を、カイが追った。半歩後ろからミシェルの横顔を見た。切り揃えた黒髪、落ち着いた目元、背筋の伸びた歩き方。きれいな人だった。
「あのさ」
「何?」
「案内してくれるついでに、今夜の食事でもどう?」
ミシェルは足を止めなかった。振り返りもしなかった。
「ここに来る男は全員が王立魔術院卒で、全員がそれだけで口説いてくるの。慣れてるわ」
「俺は口説いてない。感謝を示そうとしてる」
「初日に示す必要はないわ。ただの補佐官だからって、あなたの肩書に尻を振るなんて大間違いよ」
カイの足が止まった。
「……あぁ、ごめん。確かに下心があった」
「でしょ? メモを取りながら聞いて」
ミシェルは振り返りもせず、歩き出した。廊下を進みながら、早口だが正確に説明を始めた。上席法務官の執務室は3階の東棟、殿下の執務室は4階の中央、資料室は2階の南棟。案件の報告書は二部作成し、一部は担当上席に、一部は補佐官経由で殿下に提出する。新人が最初に覚えるべき手順と場所。
2階の廊下を通り過ぎる時、向かい合わせの二つの扉が目に入った。片方には「魔術士免許発行室」、もう片方には「免許剥奪審査室」と刻まれている。
「免許を発行する部屋と剥奪する部屋が向かい合わせって、笑えるな」
「笑えないわ。片方から出てきた人が、そのまま向かいに入ることもあるの」
カイは口を閉じた。
「それと、一つ伝えておくことがあるわ」
ミシェルが歩きながら言った。
「あなたの直属の上司はレオンだけど、新人の指導はヴィクトル上席が担当してる。彼の指示にも従うように」
「ヴィクトル?」
「ヴィクトル・ゼーリヒ。レオンとは同格の上席法務官よ。教え方は厳しいけど、それは仕事に本気だから」
カイは頷いた。同格の上席が二人。片方に雇われて、もう片方に指導される。面倒な構造だと思った。
廊下の角を曲がった時、ミシェルが足を止めた。
「ここからは東棟。レオンの執務室は突き当たり。資料室に用がある時は——」
「2階の南棟、階段を降りて左。報告書の書式は資料室の棚の三段目。あと、補佐官の執務室は殿下の隣の小部屋で、急ぎの案件は補佐官に直接持ち込んでいいけど、通常案件は書類棚に入れておく。さっき説明してくれた通りだろ?」
ミシェルの足が完全に止まった。振り返った。
「……一度で全部覚えたの?」
「忘れる方が難しい」
ミシェルの目が少し大きくなった。それから、半拍遅れて眉が寄った。
「……自慢する人は好かれないわよ」
「自慢じゃない。事実だ」
ミシェルはカイを見つめた。2秒ほど。それから、小さく笑った。笑い方に嫌味はなかった。
「面白い人ね」
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レオンの執務室に着くと、レオンはいなかった。ディアナだけがデスクの脇に立ち、書類を整理していた。
「座って待ってなさい」
「レオンは?」
「今、殿下に呼ばれてるわ」
カイは執務室を見回した。広くはないが、整理されている部屋ではなかった。書類が積まれたデスク、壁に貼られた案件の覚書、隅に放り投げられた外套。レオンという男の輪郭が、部屋にそのまま表れていた。
椅子に座って待った。ディアナは書類を整理しながら、カイに一言も話しかけなかった。話しかける必要がないと判断しているのか、話しかける気がないのか。どちらにしても、この女性がレオンの傍にいる理由はわかった。余計なことをしない人間だった。
しばらくして、四階の方から声が漏れ聞こえた。壁越しだったが、空気の震えでわかった。穏やかな声ではなかった。
ディアナの手が一瞬だけ止まった。それからまた書類に戻った。
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【セレナの執務室】
レオンが入った時、セレナは書類を手にしていた。窓辺ではなくデスクについている。顔が硬かった。
「アルシュ伯爵から抗議が来たわ」
レオンは扉を閉めた。セレナの目が書類に落ちたままだった。
「調査報告書は偽物だったそうね。始末書は撤回された」
「結果は出ただろう。伯爵は認めた」
「認めさせたのよ。詐術で。王宮に正式な抗議文が届いてる」
セレナが書類をデスクに置いた。紙がテーブルに触れる音が、静かな部屋に響いた。
「筆頭の話はなしよ」
レオンの顎が引かれた。奥歯を噛み合わせた音が、自分の頭蓋骨の中だけに響いた。
「……殿下。俺を拾ってくれた恩がなければ、今日ここを出ていくところだ」
セレナがようやく顔を上げた。目が冷たかった。穏やかさが消えた目だった。
「私はいま、あなたを空に打ち上げたい気分よ。それに、出ていくのなら、法務官免許の剥奪を申請するわ」
沈黙が落ちた。レオンは何も言えなかった。言い返す言葉があったかもしれない。けれど、セレナの目がそれを許さなかった。
「下がりなさい」
レオンは一礼もせずに、部屋を出た。




