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翌日。カイは王都の北区画にいた。
王立魔術院の正門は、替え玉で何度も通った裏手の講堂とは別の棟にあった。白い石壁に囲まれた広大な敷地。門柱には王家と魔術院の紋章が並んで刻まれている。
正門の脇に酒場があった。昼下がりの中途半端な時間帯。中には魔術院の学生が数人、講義の合間に茶を飲んでいた。制服の胸に院章がついている。カイは安い茶を一杯頼んで、隅の席に座った。
しばらく観察した。学生たちの会話を聞いた。教授の名前、試験の日程、課題への不満。こういう場所では、人は勝手に情報を落とす。拾うだけでいい。
一人、席を立った学生がいた。カイと同い歳くらいの男。友人に「先に行く」と声をかけて、酒場を出ようとしている。外套を椅子の背にかけたまま。
カイは立ち上がり、その男に近づいた。
「すみません。魔術院の方ですよね」
男が振り返った。警戒はなかった。酒場で声をかけられることに慣れている顔だった。
「そうだけど?」
「来月の入学試験を受けようと思ってるんですけど、中の様子が全然わからなくて。家族の期待が大きくて、でも周りに相談できる人がいなくて」
カイは少しだけ目を伏せた。不安を見せる演技だった。やりすぎない程度に。
「どこの出身?」
「東区画です。うちは商家で、魔術の素養があるって言われて」
嘘だった。全部嘘だった。けれどカイの声には、嘘を嘘に聞こえさせない切実な温度があった。
学生の表情が緩んだ。先輩風を吹かせたい年頃だった。
「試験は実技が重いからな。座学は教科書を読めばなんとかなるけど、魔術法規だけは判例まで頭に入れないときつい。あと実技棟の雰囲気は行ってみないとわからないよ」
「行けるんですか? 部外者は入れないって聞いたんですけど」
「まあ、普通は無理だな。門で止められる」
カイは間を置いた。頼み込む手もあったが、それは下手だった。この手の人間は、自分から言い出した時に一番気前がよくなる。
「そうですよね。すみません、変なこと聞いて」
カイは引いた。引くのが正解だった。
学生が少し考えた。それから、外套の胸元から金属製のバッジを外した。
「……今日の午後、俺は講義がない。これ、胸につけていれば入れる。学生証だ」
小さな金属板に、名前と術式の認証紋が刻まれている。
「いいんですか」
「夕方、またこの酒場に戻ってくる。その時までに必ず返しに来いよ」
「ありがとうございます。本当に助かります」
カイは礼を言って学生証を受け取った。学生は「頑張れよ」と言って酒場を出ていった。
カイは学生証を見つめた。他人の名前が刻まれた金属板。替え玉の受験票と同じだった。自分ではない誰かの名前で、自分ではない誰かの場所に入る。慣れているはずだった。けれど今回は、用途が違った。
魔術院の門は、胸につけた認証紋が反応するだけで通れた。門番はカイの顔を一瞥しただけで、止めなかった。安い私服を着ていても、胸にその紋章がある限り、彼らは汚れて着替えた学生にしか見えない。
中に入ると、正門からは見えなかった景色が広がっていた。中庭を囲む回廊、本館の講義棟、その奥に実技棟の高い屋根が見えた。すれ違う学生たちは全員が制服を着ていた。
カイは歩きながら、すべてを吸い込んだ。廊下の配置。教室の番号。壁に貼られた時間割。掲示板に並ぶ試験の日程と課題の一覧。すれ違う教授の名前は、酒場で学生たちが話していた情報と一致した。一度見れば忘れない。一度聞けば忘れない。この才能があってこそだとカイは思う。
図書室を見つけた。扉が開いていた。天井まで届く書架が何列も並んでいる。カイの足が止まった。
書架の一列目。基礎課程のテキストが並んでいる。術式理論の教科書、マナ制御の実習書、魔術史の年表、魔術倫理の判例集。その隣に、魔術法規の条文集と過去の裁定記録が並んでいた。魔術の不正行使に関する王令、免許制度の沿革、違反事例の判例。レオンが「全部頭に入れろ」と言ったものが、ここに全部あった。
カイは書架の間に入り、基礎課程のテキストを一冊ずつ開いた。ページをめくる速度は普通の人間の何倍も速かった。文字を読んでいるというよりも、ページごと写し取っているようだった。
術式理論。マナ制御。魔術史。魔術倫理。魔術法規。基礎課程5科目の教科書と判例集を、3時間で読み終えた。
夕方。カイは約束通り、酒場に戻ってきた学生に認証章を返した。
魔術院の塀の向こうで、夕日が沈みかけていた。頭の中には、魔術院の3年分の基礎知識が詰まっていた。廊下の配置も、教授の顔も、試験の形式も。何を聞かれても、答えられる。
これで準備はできた。この沼にはまったような現実から、おさらばしてやる。




