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アルシュ伯爵の屋敷は、王都の東区画で最も広い敷地を持っていた。門を抜け、庭を横切り、応接間に通されるまでに使用人が3人も入れ替わる。どの使用人も顔色が良くなかった。目が虚ろで、動きにどこか遅れがあった。外部マナに長時間さらされた人間の特徴だった。
伯爵は革張りの椅子にふんぞり返ったまま、立ち上がりもしなかった。太った体に仕立てのいい服を着ているが、襟元が窮屈そうだった。脂の浮いた額と、人を見下す小さな目。
「王立法務官団がわざわざ出向くとは。何の用かな」
レオンはテーブルを挟んで向かいに座った。勧められる前に座る。ディアナはその後ろに立つ。
「使用人3名に魔術の影響が出ています。私的な魔術行使は王令で禁じられている。ご存知ですよね」
「うちの使用人が体調を崩しただけだ。魔術とは無関係だよ」
伯爵の声には余裕があった。自分の屋敷で、自分の椅子に座っている男の声だった。太い指で肘掛けを叩きながら、レオンの反応を見ている。この程度の追及は慣れていると言いたげだった。
「なに、お前たちがこそこそ嗅ぎまわっていたのは知ってるぞ。使用人に聞き取りだの、魔力残留の計測だの。うちの門番から報告が上がってる」
レオンの表情は変わらなかった。ヴィクトルの調査は、伯爵に筒抜けだったということだ。正攻法で積み上げた証拠は、もう対策されている。
「体内のマナで賄える魔法なら、ご自由にどうぞ。火をつけるのも湯を沸かすのも、誰に咎められる筋合いもない」
レオンは足を組み替えた。
「ですが、使用人の症状は外部マナへの長時間曝露です。体の外からマナを引き込んで行使する魔術は、免許なしには使えない。伯爵は魔術士免許をお持ちですか?」
伯爵の指が肘掛けを叩く音が止まった。
「そうですか。では、こちらを」
レオンは懐から封書を取り出し、テーブルの中央に置いた。動作に迷いがなかった。封書を見つめもしなかった。中身を知っている人間の所作だった。
「屋敷内の魔力残留を記録した調査報告書です。これが王宮に届けば、伯爵家への査察が入る。家宅捜索、資産取り上げ、爵位の審議。全部です」
「もちろん、ここで事実を認めて頂ければ、報告書の提出は見送れます。始末書一枚で済む話にもできる」
レオンの声は穏やかだった。脅しの声ではなかった。選択肢を提示する声だった。だからこそ、逃げ場がなかった。
沈黙が長く伸びた。伯爵の視線が封書とレオンの目を往復する。封書に手を伸ばそうとして、やめた。中を見れば、認めたことになる。見なければ、中身がわからない。どちらを選んでも、この男の掌の上だった。
やがて、大きく息を吐いた。体から力が抜けるように。
「……少し、やりすぎたかもしれん」
「賢明な判断です」
レオンの声は変わらなかった。勝者の声ではなかった。最初からこうなることを知っていた人間の声だった。
伯爵が署名を始める間、レオンは表情を変えなかった。ディアナも黙ったまま立っていた。ペンの走る音だけが、応接間に響いた。
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屋敷を出ると、午後の陽射しが白く刺した。門の石柱を過ぎたところでディアナが口を開いた。前を見たままだった。
「ヴィクトルの証拠に魔力残留の証拠はなかったはず。あの報告書、中身は?」
「来月の備品発注の確認書だ」
ディアナの足が一瞬止まった。半歩分だけ。それからまた歩き出した。
「……いつかそれで足をすくわれるわよ」
「まだ一度もない」
「『まだ』ね」
ディアナの声には呆れがあった。けれど、その奥に別のものがあった。この男のやり方を誰より知っていて、誰より心配している人間の声だった。レオンはそれに気づいているのかいないのか、前を向いたまま歩き続けた。
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本部に戻ると、セレナの執務室にはヴィクトルがいた。窓際に立ち、腕を組んでいる。レオンが出ている間もここにいたのか、それとも戻ってきたのかはわからなかった。どちらにしても、この部屋から離れられなかったのだろう。結果を聞くまで。
レオンは伯爵の署名が入った始末書をテーブルに置いた。紙がテーブルに触れる乾いた音が、部屋に小さく響いた。
セレナが始末書を手に取った。署名を確認し、日付を確認し、内容に目を通した。目が少し大きくなった。
「半日で伯爵を落としたの?」
「相手が素直だった」
「素直な伯爵。初めて聞いたわ」
ディアナが微かに口元を動かした。レオンは表情を変えなかった。
セレナはもう一度始末書に目を落とし、それから顔を上げた。信頼の目だった。
「見事ね」
その二文字が、部屋の空気を変えた。ヴィクトルは窓際で腕を組んだまま動かなかった。始末書の中に自分が揃えた証拠が使われたのかどうか、聞きたかったはずだった。けれど聞けなかった。「見事ね」はレオンに向けられた言葉で、その言葉の中にヴィクトルの居場所はなかった。
セレナは始末書を傍らに置き、顔を上げた。目の色が変わった。案件処理の目から、別の話をする目に。
「本題はもう一つあるの。レオン、あなたを筆頭法務官に推すつもりよ。条件として、部下を一人つけなさい。ずっと言い続けてきたけど、もう待てない。昇格したいのなら、選考を開いて一人雇いなさい」
それが条件よ。セレナはレオンの目を見据えた。
部屋の空気が変わったのがわかった。ヴィクトルの呼吸が一つ、止まった。窓際に立ったまま、体が微かに強張った。
「……筆頭、ですか」
ヴィクトルの声は平らだった。平らにしていた。けれど、言葉と言葉の間にある沈黙が、平らではなかった。「見事ね」の余韻がまだ部屋に残っているうちに、昇格の話が来た。自分が揃えた証拠で、自分が対処したかった案件で、レオンが褒められ、レオンが上がる。
「ええ」
セレナの声は変わらなかった。ヴィクトルを見もしなかった。
レオンは腕を組んだ。壁に背を預け、考えるふりをした。顔をしかめ、嫌そうに吐き捨てた。
「阿保で糞真面目の《《優等生》》を押し付けられるのか」
ヴィクトルが口を挟んだ。声は平坦だったが、指先が微かに震えていた。腕を組んだまま、その震えを押さえ込んでいた。セレナではなく、レオンの方を見て言った。
「王立魔術院の卒業生を採ることで、団の信用が保たれている。君もそのことは知っているはずだ」
正論だった。正しいことを言っている時のヴィクトルは、いつも少しだけ声が硬くなる。正しさだけが、この男の武器だった。
セレナがレオンに目を向けた。
「あなたも魔術院を出ているでしょう?」
「俺は例外だ」
「なら、もう一人例外を見つけなさい」
レオンは何も返さなかった。ヴィクトルの表情が固まったまま動かないのを、ディアナだけが見ていた。ヴィクトルの指の震えが止まっていた。震えの代わりに、拳が白くなっていた。




