42 神とエルメス
人間というのは脆弱な存在だ。
アスモデウスは深い安堵感と共に、頭部が爆散した魔術師の死体を見下ろしていた。
強大な魔力を持つ男であった。悪魔であれば、間違いなく魔王となっていただろう。いや、あるいはアスモデウスでも手の届かない、あの超越者にさえ。
だが、所詮は人間だった。頭部を破壊されたら死ぬ。心臓を潰されても死ぬ。血を抜かれただけでも死ぬ。
生物としては魔物よりもはるかに脆弱なのだ。
それが仮にも悪魔に対抗出来るのは、大神の作り出したスキルを利用した社会システムの構築だと、他の魔王の部下が言っていた。
確か、ゴンベスとかいったか。
とりあえずアスモデウスは、今回の侵攻が失敗したと判断した。
悪魔でも冷静に。
純粋に、数が減りすぎた。力のある悪魔は残っているが、それでも雑用をさせるものがいない。
この機会を逃せば数百年か数千年の時を待つことになるが、仕方のないことだ。また待てばいい。
それに自身が消耗したのも確かだ。エルメスの魔術はそれなりにダメージを与えたし、防壁を破る方にも魔力を使った。
「食事にするか」
エルメスの遺体に目を向ける。人間の肉体は脳が一番美味いが、それ以外の場所も腹はふくれる。
これだけの魔力に満ちた肉体だ。栄養はたっぷりと言えるだろう。
アスモデウスは知らなかった。
悪魔が通常食べるのは、人間の負の感情である。人間本体を食べる時も、その精神を食べたり、生きたまま食べる。
だから普通の人間は、死ねば魔力を失うことをしらなかった。
魔王と言えども、地獄にずっといれば、それも仕方のないことだ。
悠々と歩み寄ろうとして、エルメスの腕がぴくりと動いたことに気が付いた。
確実に死んでいるはずのその肉体が、起き上がろうとしている。
「まさか……再生するのか……」
それは既に魔術ではなく、魔法の領分である。
悪魔でさえ命の交換は出来ても、単なる蘇生などは出来ない。
だが、対処法はある。
再生さえ不可能なほどに、細胞の一つまで消滅させればいい。
アスモデウスは再生しつつあるエルメスの頭部に、また拳を繰り出す。
そして杖すら持たないエルメスが、それを素手で受け止めた。
顔の下半分まで再生していたエルメスの肉体が、はっきりと言葉を紡ぐ。
「少し待ってくれないかね。記憶の整理が出来ていないのだ」
アスモデウスは飛びのいた。
これはなんだ?
人間なのか? 生き物なのか?
魔王を戦慄させながら、エルメスの再生は続く。
彼は考えていた。
記憶を整理しつつ、それまでアクセスしていなかった情報に触れ、不具合を直した。
どうやら最初から問題があったらしい。記憶の埋め込みというのは、どうも難しいものだ。それだけに試し甲斐があるのだが。
しかし人間の肉体は脆弱だ。
これだけの魔力を持つというのに、それを上手く活用することが出来ていない。
いくら精神が人間レベルとは言え、わざわざ異世界の高度な知識まで与えていたのだ。
本当ならばもっと、はるかに強くなっていなければおかしい。
しかし記憶を探っていくと、色々と不具合が起こっていたことが分かる。
なるほど、ならばこの程度の悪魔に殺されるのも無理はない。
彼はそう考えて、顔をアスモデウスに向けた。
その両目は閉じたまま、しかし全てを把握して。
全てを知るために、あえて目を閉ざして見えないものを知る。
そんな存在に、アスモデウスは心当たりがある。
「そうか、そういうことか」
ここしばらく、地獄から地上へ侵攻するために、わずかな封印の綻びが出来ていた。
それは神々が作りだした封印であり、管理されていれば問題など発生しないはずだった。
だがこの、わずか20年ほどの間、封印が劣化していた。
まるで神がその維持を放棄したように。
そう、放置されていたのだ。
悪魔を地獄に封印する力を持った、魔法を使う神。
「お前がエルクレントか!」
アスモデウスはそう叫んだ。
エルクレント。大神たちに知識を授けた、ある意味においては大神よりも優れた神。
彼は、この世界の神ではなかった。
より高度な、あるいはより洗練された、もしくは過酷な世界からの漂流神であった。
彼は世界の運営には携わらなかったが、大神の要請には応え、その知恵を与えた。
そして大神と違って世界の管理に関心のない彼は、色々と考えたのだ。
知識欲に満ちた彼はある日、他の世界から流れてきた魂を見つけた。
異なる世界の知識に興味を持ったエルクレントは、その魂と同化し、この世界に生まれた。
そして慣れないことをしたので、色々と不具合を起こしてしまったのだ。
うっかりさんである。
なにしろ今まで、自分が何者なのかさえ忘れていたのだから。
「感謝しているよ」
エルクレントは話しかける。
「こんなことがなければ、自分が誰であるかも忘れ、漫然と時を過ごすことになっていた」
アスモデウスは恐怖する。
この異界の神、世界の神における道化、秩序の枠外にあるもの。
そんな根源的なもの以外に、彼は恐怖していた。
エルクレントは魔法を使う。
魔法とは、世界を書き換えるものだ。
世界の神の一員でもある悪魔は、消滅してもいずれは再誕する。
それこそ魔法による、特殊な消去でもなされない限りは。
「貴様、どういうつもりだ? なぜ地上で人間のふりなどしている!?」
アスモデウスの絶叫に、エルクレントは首を傾げた。
「ん~、暇つぶし?」
アスモデウスは絶句した。
エルクレントは魔王の感情を、正確に理解した。
「だってなあ、世界の管理は大神がしてるし、時々アドバイス求められたりするだけだろ? たまには地上世界を経験してみてもいいと思わないか?」
エルクレントの行動原理は、この世界の神のものではない。
この世界にはなんらの責任も持たず、かといって悪意を持っているわけでもない。
流浪の神。いや、正確に言えば、神ですらない異物。
アスモデウスは距離を取ろうとした。全速で逃げるしかない。
「それで人間やってたら、偶然にも魔王が出てくるし。――ま、俺が封印の手を抜いたからなんだけど」
エルクレントは笑った。
色々とひどい。
おそらくエルメスの意識があったら、自分の頬を殴っていただろう。
そんなエルクレントから逃げようとしたアスモデウスは、自分が移動できないことに気付いた。
動けないわけではない。ただ空を飛んで移動しようとしても、地面を蹴って移動しようとして、体がその場所にあるままなのだ。
何をされたのか分からないが、何かをされたのは間違いない。
あせるアスモデウスの頭に、エルクレントは掌を向けた。
「というわけで折角頑張ったところ可哀想だが、地獄へ落ちなさい」
アスモデウスの頭が弾けた。
それが偶然にも、エルメスの死因と同じであった。
魔王の魔力は拡散し、大地の下へと沈んでいく。
地獄のアスモデウスは失った力を回復するのに、数百年はかかるだろう。
「まあ、こんなもんか」
エルクレントはどこか落ち込んだようにも見えた。




