34 決意するエルメス
パガン王国の援軍が悪魔の奇襲を受け、行動不能に陥ったという報せが届いたのは、翌日のことである。
人は都合の悪い事実を知った時、咄嗟には最適の行動を取れない。
無駄に時間をかけて、それが誤りではないかと確認するものだ。
だがもちろん、そう流されない者もいる。
エイルは騒然とする司令部の中で、即座に必要な情報を判断した。
「エルメス、悪魔の別働隊の規模と現在地、それとここまでどれぐらいかかるか分かるか?」
「規模と現在地は調べます。ですがここまでの時間は、分からないかもしれません」
普通の人間の軍と、悪魔の軍では編成も速度も違うだろう。
だがまず間違いなく、人間の歩兵よりは速いはずだ。
エイルが考えたのは、現在ワールの街と対している軍が、悪魔の本軍かどうかである。
悪魔が軍を三分し、こちらの援軍を退けたというのは、確かにまずい事態だ。
しかし考えようによっては、敵は戦力を分けてしまっているわけだ。
もし敵の戦力が完全にこちらを上回っていた場合、そして分けることによってこちらの戦力が上回った場合。
それは所謂、各個撃破の絶好の機会となる。
……現実においてはおおよそ、失敗して集結した敵に包囲殲滅されるものだが。
しかしもし悪魔の力が強大なら、ここで一部を削いでおかなければ、遠方からの援軍が来るまでに壊滅するかもしれない。
エイルは極めて難しい判断を迫られた。
「北は半日、数はおおよそ400。東はおよそ300。3刻ほどの距離ですね。人間の足なら」
軍に限らず動物でもそうだが、数が増えるほど移動速度は遅くなる。
エルメスの言った距離は、普通の旅人が歩いた場合だ。
「それと北に、一際大きな魔力がありますね」
それは、おおよそ想像がついている。
悪魔の軍団でありながら、ここまで存在を感じさせなかった。
魔王が北にいる。
それは絶望的な報告なのか、あるいはその逆なのか。
いや、魔王なしの悪魔の軍勢に攻め込まれている時点で、もちろん絶望的なのだが。
「全力をもって、正面の魔王軍を叩く。その後出来れば、東の魔王軍を叩きたいが……」
エイルがエルメスを見る。肝心の魔王軍の力を把握しているのが、エルメスだけというのが問題である。
エルメスが思うに、今ワールの街にいる魔王軍を倒すのは、正直五分五分である。
その後に東の魔王軍と戦うのは、かなり分が悪い。
しかし二者を放置して北の魔王軍と合流させれば、勝ち目はないだろう。
現在ワールの街を攻めているのは、数は多いが質は低い悪魔。おそらく足の遅さを基準に選ばれたのだろう。
空を飛べるタイプも、おそらくここに多く配置された。城攻めならば飛行出来る部隊の強さは言うまでもない。
この、数が多いが質は低いというのは、重要な要素だ。
普通の悪魔は、最も弱い個体であっても、人間の敵うものではない。
しかし軍として行動し、兵器の援護を受ければ、倒せないわけでもないのだ。
どのみち、ワールの街の壊滅は避けられないのではとエイルは考えた。
「非戦闘員を、港から脱出させよう」
これまではワールの城壁を利用して、魔王の軍と決戦しようとしていた。
だが実際の敵の戦力は、想定よりもはるかに多かった。
篭城するにも悪魔の破壊力が強くて、防衛設備が上手く機能しない。
ならば最悪を考え、非戦闘員を脱出させるべきだろう。
特に子供などは役に立たないので、先に行かせる。
市民まで全員を避難させるのは、船の数から考えても無理だろう。
安全地帯まで移動し、何度も往復することを考えても、間に合いそうにない。
「他の港からも船を出させよう。せめて少しでも一般市民を避難させたい」
おそらくワールの街は壊滅する。
悪魔というのは個体として強いので、市民に無理やり武装させても、物の数にならない。
逃げ場がないので決死の覚悟で戦ってくれるかもしれないが、そもそもそれだけの武器がない。
投石ぐらいならいくらでも準備出来るが、悪魔相手では嫌がらせにもならないだろう。
エイルは司令部から伝令を出した。代官へこちらへ来てもらうよう依頼したのだ。
本来ならエイルが訪れる側であるが、今司令部を離れるわけにはいかないのだ。
代官もそれは承知しているらしく、司令部へ来ても不満そうな顔は見せなかった。
現在の状況を説明され、さすがに顔色が悪くなる。
「分かった。王都を含めて連絡し、援軍と移動用の船を頼もう」
この場合避難するのは、当然ながら貴族の非戦闘員が優先される。
命は平等ではない。だが代官は自分はここに残ると言った。
正直、戦争の知識のない代官がここに残る利点はあまりない。指揮権を明確にエイルに渡している以上、指揮系統が二分してしまうということもない。
「私が残っていた方が、兵の士気は上がるだろう」
それは矜持を持った王族としての覚悟であった。
封建国家であるパガン王国において、騎士はともかく兵士の質というのはそれほど高くはない。
特にワールの街の兵士など、ほとんど戦争経験もないだけに、目の前の脅威に対して恐怖することは間違いない。
だが、代官が残るのなら。
自分たちの妻子などを先に避難させ、代官自身はこの街に残るのなら。
その覚悟は伝わるだろう。事実、騎士たちの絶望の表情に、かすかな光が見えた。
ワールの街は滅びるだろう。
自分たちも一人残らず死ぬかもしれない。
だが、女子供を逃すための時間を作るなら。
少しでも男であるなら、そのための勇気を振り絞ることが出来るかもしれない。
そして何よりこの代官の言葉は、エルメスの心に響いた。
世界を憎む魔術師に、権力者への尊敬の念が生まれた。
この期に及んでまだ全力を出していなかったエルメスの意図は、魔王の強さというのが分かっていなかったため、余力を最大限残しておきたいということであった。
エルメスがその気になれば、ある程度の実力以上の悪魔以外は、おおよそ一撃で片付けられる。
いざとなれば自分一人でも逃げ出そうと、エルメスは思っていた。
ほんの少しの人数であれば、共に連れて行くことも出来ただろう。
「閣下」
エルメスは二人の権力者の間に割って入った。
その言葉はエイルに向けられたものだ。
「目の前の悪魔を全滅させます。少しは洩らしがあるかもしれませんが、それは軍で片付けてください。それが済んだが東の魔王軍を片付けます。それから北からの軍と戦います」
それはワールの街の軍でも、そう動こうとしていた案であった。
だがエイルには違う意味があるのだと分かる。
「まさか……一人で戦う気か?」
さすがに正気を疑うエルメスの発言であったが、この無名の魔術師は、余裕のある笑みを浮かべた。
「今後の上司の心証を、少しでも良くしておきたいですから」
かくして魔法使いの戦いが始まる。




