27 役割とエルメス
最初、それに気づいた者は少なかった。
魔物が魔境から出てくることは、それ自体はそれほど珍しいものではない。
問題はその数であった。
魔境の浅いところにいる、弱い魔物が現れた。それは周到に準備された人間の部隊によって、それほどの困難もなく処理された。
しかしその死体を片付けるまでに、次の魔物が現れる。
さらにまた次の魔物が現れるまでには、まだ前の魔物が残っていた。
事態を危険視した騎士がエイルたちのいる本部へと連絡を取る。
それまでにほぼ全ての前線で、戦闘が開始された。
「来たか」
魔術による通信で、事態の変化を知ったエイルは、まず代官へと連絡をした。
最悪の場合を、既に想定している。視線を向けられたエルメスはこくりと頷いた。
「事前の予定通り、戦線を縮小する! 連絡急げ!」
エイルの指示が飛び、ワールの街の司令室は規律を取り戻す。
元々確率は低いだろうが、予想はしていたことだ。
総司令官の命令は、粛々と実行されていった。
「あと援軍要請とかではないが、北と東の軍にも連絡は入れておけ」
この時点で要請が出来たらそれだけ楽だろう。
しかしまだこの状態では、そこまでを行うのは不自然すぎる。
「魔物たちの処理後、うち以外の軍に頼ることもあるかもしれんからな。先に言っておけ」
今はこれが精一杯だろう。
しかし事態は瞬く間に悪化していった。
魔物の氾濫が止まらず、やがて一つの隊が悪魔の姿を確認した。
エイルは即座に全面撤退を指示した。
心構えは出来ていたし、撤退の訓練も含むとは言ってあったが、それでも訓練と実際は違う。
魔術による連絡で、どんどんと損害が出ていることが判明した。
エイルは表情を固くし、またちらりとエルメスを見た。
それに対してやはり、エルメスは小さく頷いた。
住民の避難は完了しているが、軍の中でも足の遅い部隊が、魔物に追いつかれていた。
巨大で強力な魔物はまだ遠いが、小さく速く、そして牙を持つ魔物は食いついてきたのだ。
足止め。果たして魔物にそんな意図があるのかどうかはともかく、事実としてはそうなっていた。
殿を務める騎士は、覚悟を決めた。
誰かがしなければいけない。その時には俺がする。
そんな覚悟を決めていたはずだったが、実際にその事態になると、なかなか覚悟はつかないものである。
獣の魔物を長剣で捌く騎士は、己の死が近づいているのを感じた。
騎士の部隊もおそらくは全滅するだろう。一番若い兵は伝令として出しておいた。この役割は間違っていない。
最後に笑って死んでやる。そんな心構えの騎士は、遠くの巨大な魔物の前に、これまた巨大な何かが立ちふさがるのを見た。
いや、何かとは言うまい。
それは明らかにゴーレムだった。
金属の光沢を持つ、身長の10倍にもなる巨大なゴーレム。
それが地面の中から這い出し、後続の魔物たちを鎧袖一触蹴散らしているのだ。
(学院の試作ゴーレムか)
軍の中でも、そんな話は聞いたことがない。だがこのタイミングで出てくるという事実だけはありがたい。
騎士は損害を出しながらも、部隊の統率を失わずに退却に成功した。
防衛線は時間と共に縮小していたが、破綻してはいなかった。
犠牲は出ていたが軍として崩壊してはいなかった。
全て事前の準備と、的確な司令によるものだ。
だがワールの本部にて、エイルは歯を食いしばっていた。
犠牲が出ている。
鍛え、鼓舞し、掌握していた軍の兵士や騎士が、無残な死体となっている。
この犠牲は全く無駄ではない。犬死ではない。
軍人というのは戦場においては、消費されるのが当たり前のものだ。
しかしその現実が、こんなにも腹立たしいものだとは。
エイルは総指揮官としての戦争の経験がない。
パガン王国南部に出没する海賊や、内陸部の盗賊の討伐には参加した。
だがそれはせいぜい、部隊指揮官としてのものだ。自分が犠牲になれと命じる、こんな形での戦闘の経験はない。
なるほど貴族が司令官になることや、司令官になった者が貴族に叙される意味が分かる。
兵や騎士などを、同じ人間として見るような甘さでは、結局戦線を崩壊させてしまう。
エイルは正しく判断しながらも、逆襲の瞬間を窺っていた。
エルメスもまた同じだった。
だが彼のそれは、エイルに比べたらずっと小さいものであった。
彼は他人から好意を持たれることは少なく、社会での責任も小さいものであった。
だからリックたちが前線で危機に陥ったのを知れば、すぐにそこに増援を向かわせた。
エルメスは国のためには戦っていない。
民衆のためでも、王のためでもない。彼は意図的に、命に価値をつけている。もちろん貴族や王族の価値などは虫けら同然である。
ただ自分にとって好ましいものにだけ、彼は増援を与えた。
このパガン王国の危機にあたって、彼は非情なまでに自己本位であった。
だがそれの何が悪いというのだろう。
そもそもエルメスがいなければ、魔王による被害はとてつもなく大きなものになっていたのだ。
彼が自分の大切なもののついでに、周囲の人間を守るとしても、それをもって彼を悪人とは断じえない。
エルメスにとって、この世界における人間社会の善悪は、自分にとっての尺度とは全く違う。
命の価値の順序は、本来全ての人間にとって、それぞれ違うものなのだ。それを忘れさせているのが社会だ。
この混乱によって、社会は変わるかもしれない。
エルメスの望む方向に。
だからエルメスは、死に行く命を多く見つめながらも、心を動かすことはなかった。
まだ早い。
自分が出れば、犠牲は少なく済む。損害は少なく済む。
だがその犠牲や損害の数は、エルメスにとって重要な数ではない。
人間が害獣と断じる生物を殺した数を、犠牲や損害と考えるだろうか。
むしろそれは、人間にとっては好ましい減少の仕方なのだ。エルメスにとって普通の人間というのは、一般的な普通の人間のそれより、よほど価値がない。
だから、まだ動くのは早い。
送られてくる凄惨な光景を、苛立たしげに見つめながらも、エルメスはまだ動かない。




