17 魔術師とエルメス
皇帝熊という魔物について、ミーナにはあまり大した知識はない。
名前からしてかなり強力な魔物であろうとは察せられるが、しょせんは魔物である。
強大にして王国の国力の源たる魔術。その行使者である魔術師の中でも、特に選ばれた学院の卒業者。
そんな自分であれば、どうにでも対応できると思っていた。
「あのさ~、魔術使うならそろそろ準備した方がいんでない?」
まるっきり傍観者のエルメスの台詞に、また激昂するミーナである。
「言われなくても! あれから研鑽を積んだ私の魔術、とっくと見ているがいいわ!」
なんという噛ませ臭! エルメスは戦慄した。
そんなある意味呑気なミーナに対して、護衛たちは明らかに悲壮である。
この護衛の冒険者ランクは最高が4で、本来は皇帝熊との遭遇など想定していない。
だからエルメスは声をかけた。
「あのさ、護衛依頼の内容は学生の護衛なんだから、残った教員まで護衛する必要はないんだけど?」
これに対して冒険者達は怒った。
「ふざけるな! 女一人を残していけるか!」
「俺たちはお前みたいなスキルなしとは違うんだ!」
ちょっとカチンときたエルメスである。
そもそも依頼内容は、学生の護衛なのだ。
この場に残って時間を稼ぐとか言っているが、護衛すべき対象はここにはもういない。
諸事情を鑑みればギルドもこの判断を誤りとはしないだろうが、依頼を正確に果たすなら、エルメスの方が正しいのだ。
まあリックたちなら弱い魔物など敵ではないし、近くにそんな危険な魔物の気配もない。
だからこそエルメスも残ったのだが、別にここでリックたちの後を追っても、エルメスの責任にはならないだろう。
だが心情的にどう見られるかは別である。
それにこのメンバーでは、エルメスがいない限り、皇帝熊と戦えるとは思えない。
「皇帝熊はパワーがあるし防御力も高いから、前衛は回避に専念しろよ~。盾で頑張っても無駄だからな~」
一応アドバイスするエルメスであるが、それを実行しても無駄だとは思っている。
根本的にスキルが足りていないのだ。まあ実際に皇帝熊と相対すれば、嫌でも分かるだろうが。
「皆さんには私の護衛をお願いします。魔術で熊をしとめてみます!」
多少の緊張はしながらも、ミーナは気丈に訴える。まあ確かに、学院卒業者レベルの魔術が決まれば、勝ち目がなくはないのだが。
「魔術戦闘の訓練なんてしてないだろうから、顔を狙えよ~。ほとんどの魔術は皇帝熊には効かないからな~」
もちろんエルメスのレベルなら話は違うが。
そんなこんなで、いよいよ皇帝熊が接近してきた。
「あのさ――」
「もうスキルなしは黙ってろ!」
皇帝熊を倒すための、基本的な知識を話そうとしただけなのだが。
むっとするエルメスであるが、一応は言っておくべきだろう。
「もっと開けた場所の方がいいぞ。皇帝熊は巨体だから林の中の方がいいと思うだろうけど、大木でも平気で薙ぎ払う魔物だから」
エルメスの助言に苦々しい顔をしながらも、リーダーは適切に対処した。
「少し前の場所まで移動する」
その頃になると、もはや樹木が薙ぎ倒される音が聞こえてくる。
わずかな距離を移動して、一行は見た。
人間の倍以上の高さからこちらを見つめる、二本足で立った皇帝熊の姿を。
「でかい……」
誰かが呟き、また他の誰かが唾を飲み込んだ。
こんなものを相手に、どうやって戦えばいいというのか。
確かなことは一つ。エルメスの煽り気味の助言は、全て妥当であったということだ。
「お~い、魔術使わないのか~」
ねっとりとした嫌味を込めてエルメスは煽る。だがミーナはそれでようやく我に返る。
『炎よ 原始より来る――』
詠唱が始まった時点で、エルメスは舌打ちした。
この近距離で魔術を使うということがどういうことか、研究室の魔術師は全く分かっていない。
皇帝熊は躊躇しなかった。
その巨大な前足は護衛など飛び越えて、ミーナを直接狙ってきた。
詠唱が途切れる。
不可逆の死を目前にして、ミーナは失禁していた。
皇帝熊の大質量は、護衛数人を巻き込んで、破壊の嵐を呼ぼうとした。
だがその前腕は、光り輝く壁によって阻まれていた。
エルメスの『防壁』の魔術である。もちろん普通はオーガの一撃にも耐えられないものであり、強化された魔術だ。
「お~い、魔術はどうした~」
へたりこんだミーナに対して、エルメスは声をかける。
さすがに冒険者たちは洩らした者などいないが、動きは止まっている。
エルメスはさすがに不憫になった。
元々自分がその気になれば、問題にはならなかったのだ。
妙齢の女性が多数の前で失禁など、とても人に言えるようなことではない。
だからミーナは滝のような水を、頭からかぶることとなった。
きょとんとして彼女は、化粧も落ちてぐちゃぐちゃな顔になっていた。
「だから、無理はすんなっての」
エルメスはそう言って、あっさりと皇帝熊を倒した。
皇帝熊の巨体を前に、冒険者達は呆然とするしかなかった。
エルメスの熱線は熊の眉間を貫いたが、それ以外には傷などは無い。
およそ魔物の素材として、これ以上の価値はないだろうという状態だろう。
「お~い、解体するなり応援呼ぶなり、どっちかにしろ」
エルメスの声でようやく我に返る一同である。
そんなエルメスは真っ先に、皇帝熊の背中を切り裂いていた。
狙うは魔力結晶。ここまでの魔物であれば、確実に持っているだろう。
そしてもう一つは肝臓である。熊の肝臓、特に胆嚢は薬の素材として非常に高価なものなのだ。
「魔法の袋とか持ってきてないのか? さすがにこいつを放置するのはもったいないぞ」
そう言われてようやくミーナは立ち上がった。
エルメスのしてくれたことの意味が、分からないほどの愚か者ではない。
しかし何かこう、もっと穏便な手段があったのではないかとも思うのだ。
「採取用に魔法の袋を貸し出してもらっています。全ては無理ですが、ある程度は持って帰れるでしょう」
冒険者達は沸いた。
魔物の討伐は本来の任務ではない。そしてこれは討伐した魔物であるので、追加報酬となるわけだ。
全てをエルメス一人がしたという事実を除いては、とても素晴らしい結果である。
必死で解体を行う冒険者を、エルメスは特に何も言わずに見つめていた。
ランク4冒険者といってもこの程度のものだ。エルメスは魔術師であるにもかかわらず、戦士たちよりはるかに高い接近戦能力を持っている。
「ねえ」
まだ頭から濡れたままのミーナが、恐る恐る声をかけてきた。
「さっきの魔術、何?」
ミーナの常識によれば、防壁系の魔術であれほどの効果があるのは、上級の魔術である。
そして上級の魔術というのは、魔術関連スキルを7以上持っていないと使えるものではない。
「あん? ただの防壁だけど?」
「ちょ! 防壁の魔術ってのはもっと、鎧みたいに膜を作るものでしょ!? あんなの上級の要塞とか」
「冒険者の能力を詮索するのは、ルール違反だ。まあそっちは冒険者じゃないけど、ただでなんでも教えてもらえるとは思うなよ」
「それは……でも新しい魔術の共有化は、魔術師全体の強化につながるのよ」
「俺の知らないところでな。誰の助けもなしに身につけた魔術を、どうして共有しろと?」
実のところ、あの魔術はそんなに難しいものではない、というかただの防壁だ。
単に出力が強力すぎるだけなのだ。ほんのわずかに応用して、形を変えただけのものだ。人に教える価値などないというのは本当だ。
ミーナはそれでも言い募ろうとしたが、エルメスが止めた。
皇帝熊が現れたのとは別の方角から、接近する気配がある。
強大な魔力を、無理やり隠蔽している。そしてそれはエルメスの知っているものだ。
木陰から現れた男は、ごく普通の人間に見えた。
「やあ」
「どうしたゴンベス?」
唐突な親友の登場に、エルメスは少しだけ身構えるのだった。
明日はお休みするかもしれません。




