月とナイフ 2
「殺さないのか?」
「ひぃッ」
眠っているはずのイワンにいきなり声をかけられ、アーリアは口から心臓が飛び出るのではないかと思うほど驚いた。
驚いたついでに体がビクっと震え、はずみで手からナイフが滑り落ちる。
「ぎゃー!」
とっさに跳ね起きたイワンがナイスキャッチ、アーリアは両手を手に当てたまま、2人でドキドキハアハア荒い息を吐きながらしばしの間フリーズ。アンドパニック。
「こここここ殺す気か!!」
「ごごごごごめんなさい!!」
「ごめんなさいで済むか、バカ者! ここに座れ!」
指されたベッドの上に大人しく正座したアーリアの向かいに胡坐をかいて、イワンは腕を組んだ。説教モード全開。
あれ、おかしい。なんか流れがおかしい。
「今までどこに行っていた」
「……えーと、うーんと、の、野原へお花を摘みに」
「誰にも何にも言わずにか? どれだけ心配したと思っているんだこのバカ娘が」
「別にあたしがいなくたって、イワンにはジェシカがいるじゃない」
横を向いて口を尖らせながら、アーリアはゴニョゴニョ呟く。
「……そんな心配なんてしてなかったくせに。せいせいしたと思っていたんでしょ。知っているんだから、浜辺で2人で仲良くしていたのを」
「それでおれを殺そうとしたのか?」
うぐ、と一瞬アーリアは詰まったが、「そうよ」と横を向いたまま吐き捨てるように言った。
「そうよ。その通りよ。だからそのナイフを返して」
「分かった」
あっけらかんと頷いたイワンは、手にしていた短剣をこれまたあっけらかんと差し出した。
「さっきは反射的に動いてしまったが、もういい。覚悟はできた。これでおれを刺せ」
「えっ……?」
驚いたままのアーリアの手を取って、その短剣を握らせる。
「心臓はここだ。一気に貫け。どうせおれが死んでもジークがいるし、国はなんとかなるだろう。それに惚れた女に刺されて死ぬのも悪くない」
「えっ? ええっ??」
アーリアの頭は混乱した。脳味噌がイワンの言葉をうまく分解してくれない。
「すみません、もう一度言ってもらっていいですか?」
「心臓はここだ。一気に貫け。痛いのは嫌だから、ぐさっと」
「いえ、その後」
「どうせおれが死んでもジークが」
「じゃなくて」
「……惚れたおん……ひぃいいい!!」
最後が絶叫になったのは、アーリアが飛びつくように抱きついてきたからである。死を覚悟した男としてはいささか情けない悲鳴を上げて、勢い余ってベッドヘッドに思いっきり頭をぶつけた。ゴオオオオーーンと教会の鐘の音のように荘厳な音がして、イワンの意識は一瞬天国へと飛んだ。アーメン。
「おいこら! 不意打ちは卑怯だぞ!」
「……もう一回言って?」
僅かに身を起した、鼻と鼻がくっつきそうな距離で2人の瞳がぶつかった。アーリアの
青い瞳が涙を湛えて、キラキラ光っている。
「ねえ、お願い。もう一回言って」
「……おれはお前に惚れているんだよ。いきなり……消えやがって……どれだけ待ったか……この大バカ者が」
「ジェシカは?」
「間にあるのは友情だと、お互いに気が付いた」
「……あのね」
イワンの手が上がる。
「あたし、人間じゃないの」
頬を包んだその手に自分の手を添え重ね、アーリアは悲しそうに笑った。
「本当は人魚なの。ポセイドンの娘なの」
「ああ」
ゆっくりとアーリアを引きよせて、そのこめかみに唇を付ける。
「なんとなく、そんな気がしていた。だけど」
静かに、優しく、慈しむように。
「お前が何者だろうと、どうでもいい。アーリアがアーリアだからこそ、おれは好きになったんだ」
「掟をやぶってしまったの。そのけじめをつけなきゃいけないの。でも……あなたを殺すことなんてできないわ」
「だったら2人で罰を受ければいい」
頬を包んでいた手は、抱きしめるように背中に回った。その耳元でイワンは囁く。
「神に抗って見せよう。負けてたとしても、たかが海の藻屑になるだけだ」
アーリアの瞳からついに涙が零れた。頬を伝った雫は、真珠へと変わり、コロコロと零れていった。
次から次へと際限なく。
どちらからともなく見つめ合い、自然に唇が合わさる。次第に深くなってゆくそれは、熱を帯びて吐息が混じり合うようになる。
「ちょ、ちょっと待って」
流れをぶった切ったのは、まさかのアーリア。
「どうした」
イワンを押しのけて、不安そうにじっと扉を見つめている。
「あの……その、これはリアルよね? リンジーとジャックがいきなり『ドッキリ大成功!』とか看板もって飛び込んできたりしないわよね」
「……」
どうやらツン期間が長すぎて疑り深くなったようである。
「だってとってもアリエル」
「ない。ありえない。もういいから黙れ」
「でも……」
まだ何か言おうとした口は無理矢理塞がれ、それからは切ない吐息しか零れなくなった。
ベッドの下に、用無しになった短剣が落ちている。その横を、きしんだ弾みで真珠が一粒、転がり落ちた。
慎み深く転がっていって、月明かりに照らされ止まった。




