眠れない夜を抱いて
アーリアが行方不明になって、真っ先に動揺したのはプチトリアンの使用人たちである。
「賭けはどうなる!?」
自分たちのことしか考えてないなどと責めてはいけない。彼らにとっては死活問題だ。
「もう、棄権ってことで、フトマル(隠語でジェシカの意味)勝利でいいんじゃね?」
一方が声を上げればもう一方は反発する。
「いや、彼方からのリベンジで形勢逆転の可能性だってある」
「どうやってさ」
「それは……分からんが、あのパープーさん(隠語でアーリアの意味)なら、華麗なウルトラCを決めてきそうな気がする」
「へっ。ただの願望じゃねえの」
「なんだとう!」
「喧嘩はおよし」
一触即発しそうな双方に、バナナ凍りました、くらいの冷たい声で仲裁に入ったハンナは、ちらりと台所の入口付近に立っている王子の護衛と道化師に目を向ける。
「あんたたちは何も聞いてないのかい」
皆の視線を浴びて、リンジーとジャックは同時に首を振った。
「イワンさまはあれからも、お変わりありませんし」
「むしろフトマルはんの方が、うろたえてはるなあ」
「それなんだよ」
使用人の1人が不満そうに言った。
「普通、女がいきなり消えたら捜索の一つくらいするだろ。なんで放置なんだよ、おかしくね?」
誰も答えない。
「王子の中であの子はそれっぽっちの存在だったのかよ。いなくなったらハイ終了、みたいな。やっぱりおかしくね?」
誰も答えられない。
「ねえ、あなた」
就寝前の身繕いを終えて、ベッドヘッドに体を凭せ掛けて本を読んでいる夫に、ジェシカは声をかけた。
「なんだ?」
「その……アーリアのことだけども、やっぱりちゃんと探した方がいいと思うの」
常に自分と夫の間に居座っていたアーリアが突然いなくなって、ジェシカはせいせいするどころか、不安にかられるようになった。
あの天然バカ娘が自ら姿を消したとは到底思えない。誘拐された可能性が高い。
「なんども言っているだろう、あれが大人しく浚われるもんか。袋に詰められても、檻に入れられても蹴破って出てくるよ」
「お菓子に釣られたかもしれません。おやつには目がなかったし」
「子供じゃあるまいし」
「あなたは心配じゃないんですか」
「全然」
音を立てて本を閉じる。この話は終わり、とばかりに。
「元いた場所に戻ったんだろう。やっかいものが消えて、すっきりした」
嘘つき。
心の中で呟いて、シーツの中に潜り込む。
ジェシカの寝息が落ち着いたのを見計らって、イワンはベッドを下りた。
夏も終わりかけの季節、深夜ともなるとひやりとした冷気に包まれる。振り払うように足を速めて浜辺へと向かった。
満ちかけの月に照らされてさえざえと輝いている海を見ながら、定位置に腰を下ろすと今更ながら波の音が耳に付いた。
どうやら今夜は風が出ているらしい。黒い雲が流れるように月を横切ってゆく。
イワンはここで待っている。
身じろぎもせず、海を見据えたまま、ひたすら待っている。
何をしているんだ、おれは。と失笑している自分がいても、何の意味もないと分かっていても、夜になるとここに足が向いてしまう。
ふと砂を踏む足音が聞こえた。心臓が跳ねあがる。
足音はだんだん近づいてくる。歓喜を抑えつつも凝視するその方向に浮かび上がったのは、妻のまんまるいシルエットだった。
「あ……」
思わず落胆の声をだしたイワンに、ジェシカは微笑んだ。
「わたくしが、気が付いてないとでも思って?」
「毎夜毎夜、ベッドを抜け出してどこに行っているのかと思えば」
イワンの横に腰を落ち着けたジェシカは、羽織っていたストールを掻き合わせた。
「ここは、あなたがアーリアに助けられた場所なのでしょう?」
ジェシカは淡々と言う。嫉妬も嫌味も含まれていない、静かな声だった。
「そしてあなたはここでアーリアを待っている」
「……今夜限りで止すよ」
息を吐き出すように、額に手を当ててイワンは項垂れた。
「心配掛けて悪かった。アーリアのことは、もうきっぱり忘れる。これからは全力で君と向き合う。ごっこじゃなくて、ちゃんとした夫婦として」
「お互いに向きあって、慈しんで、子供ができて、一緒に年を取って」
歌うようにジェシカは続ける。
「でも、わたくしたちは幸せになれない」
ふふ、と柔らかく笑った。
「忘れることなんてできないわ。アーリアはいつまでもあなたの中に君臨し続けるのよ。わたくしは日常に取り込まれるだけ。そんなの、許せない」
「それは……」
「ねえ、あなた」
小首を傾げてイワンを覗きこむ。
「わたくし、けっこう欲深いの。愛する人の心に、他の女の欠片が入り込んでいるなんてまっぴらごめんよ。だから無駄足掻きはせずに、素直におなりなさいな」
「……君を愛さなきゃと思ったんだ。どれだけ時間をかけても」
敗北を認めたような声だった。
「だけど、無理だった」
なんだろう、この穏やかな気持ちは。否定されたのに、イワンに対して怒る気にもならず、むしろ慈しみが湧いてくる。
ああ、そうだ。自分は立場に縛られていただけだ。妻という立場に。
気が付いていたけれど、気が付かないふりをしていた。
「それでいいのよ。あなたの心はあなただけのものだもの」




