彼と彼女
「痛い痛い痛い痛い! 重い重い重い重い!!」
わめいている人物をごろりとひっくり返し、その顔を覗きこんだ2人は同時に叫んだ。
「あなたは……!」
しばし間。
「どちらさまでしたっけ?」
いや、見たことはある。見たことはあるんだ。アーリアは舞踏会の夜に、ジェシカは結婚式の最中に。ただ、顔は覚えていても名前は失念していた。
しかし、彼の自尊心は大いに傷ついたらしい。顔を真っ赤にさせて起き上がった。
「失敬だな、君たちは。この城のスタア、ウィルソン・フォン・ボレーの名を御存じないとは! 冗談も大概にしていただきたい!」
「そのスタアが女装して、イワンのパンツを狙っていたのね」
「うッ……!」
冷静なジェシカの声に、一瞬詰まらせたボレーだったが、ずれた赤毛のカツラをむしり取って吠えるように叫んだ。
「仕方ないだろう、このバカ娘がやったように見せかけて、君たちを憎み合うようにしむけないといけないんだから! おれだってこんなの着たくなかったよ、だけど意外と似合うかもって最近思ってき……って、そんな話はどうでもいいんだよ!」
「あなた、かわいそう」
しゃがみこみ、腰をぬかしている状態のボレーと同じ目線になって、アーリアはしみじみと言った。
「あなたもイワンが好きなのね」
「はあ!? どこをどうしたらそうなるんだ……いや、おれはこれが欲しかったのか(握りしめられたヒョウ柄パンツをじっと見つめる)。ハッ、寝ても覚めてもあいつのことばかり考えていたのは、もしかしたら……」
「このアンポンタンがぁあーーー!」
怒号と共に彼方から強烈な飛び蹴りを喰らって、ボレー君は曲線を描いて吹っ飛んだ。
おおー、とアーリアとジェシカが感心したように、その軌跡を目で追う。
「ほんっとにペラペラペラペラとこの口は! 糸で縫いつけたろか、ああ?」
ルイーズ嬢にガクガクブルブルと揺さぶられて、ボレー君の意識は遠い夢の中へと旅立ってしまった。すなわち失神。
「あなたの仕業だったのね」
険を含むジェシカの言葉に、ルイーズ嬢は鼻でせせら笑った。
「それが、なにか?」
「なにかじゃないわよ。どうせやるならこんな中途半端じゃなくてもっと徹底的に……」
「あなたはちょっと黙っていて」
隣のアーリアの頭に手刀を落とし、ルイーズ嬢に向き直る。
ヒョウ柄パンツを握りしめてのびているボレー君の隣で、女2人はドドンと睨み合った。
「言いたいことがあるなら、はっきりとここでおっしゃればいいわ」
「あら、ではお言葉に甘えて申し上げるわ。あなた、目障りなのよ」
ふふんと小バカにしたようにジェシカを見下し、丁寧にカールされた髪先をいじりながらルイーズは続ける。
「この際だから言わせてもらうわ。あの人の相手がどこの馬の骨でも構わなかった。でもまさか、豚さんだとは思わなかったのよ」
ピクリとジェシカのこめかみが動いた。
「豚さんなら愛されなくて当然じゃない。しかもすっごい不細工。これじゃあ、イワンさまだってかわいそうよ、わたしの方が妻の座によっぽど相応しいわ」
「ジェシカはいい人よ」
無邪気にアーリアはルイーズを見上げるように言った。
「少なくとも、こんなことをさせるあなたよりもまともだわ」
「うっさい、この寄生虫!」
般若のごとくの顔で怒鳴られて、アーリアは首をすくめる。
「あんたたち2人、まとめて海の藻屑になっちゃえばいいのに。喜んでお手伝いさせていただくわ」
「それ以上、わたくしとアーリアを侮辱するのであれば」
信じられないほど低い声が出た。頭がぼうっとして、まるで別の誰かが話しているみたいだ。
ああ、自分はすごく怒っているんだとふと気が付いた。
「鱠切りにして鮫の餌にしますけれど、それでもよろしくて?」
微笑みながら一歩ふみだせば、ルイーズの顔が恐怖にひきつる。
「ここまでのことは、水に流して差し上げます。ですが、これ以上また何かされるのであれば、夫も黙っておりませんから」
ルイーズ嬢はただ「ふん!」と鼻を鳴らし、のびたまんまのボレー君(ヒョウ柄パンツはすでにアーリアが回収済)を引きずって行ってしまった。
「きゃあ、ジェシカ! すっごくかっこよかった」
はしゃぐようにジェシカに抱きついたアーリアだが、今度は中々離れてくれない。
「ちょっと、もういい加減……」
「ジェシカの体、ポヨポヨフクフクで気持ちいい……(ハアハア)、ねえお願いもう少しだけ(ハアハア)」
「ぎゃーーー! やめてーーーー!!」
悲鳴は青空の中に吸い込まれていった。
「待てよ。ちょ、待てって」
ようやく遠き夢の旅路から戻ってきたボレー君は、前をずんずん歩くルイーズ嬢に必死になって声をかけている。
「だから言ったじゃないか、しょせん悪あがきだって」
「それが?」
振り返ったルイーズ嬢の目は、涙を堪えるように濡れている。そんな顔を見たのは始めてだったので、ボレー君は驚いてしまった。彼女は夜の方がよく似合う。特にロウソクの灯りの下で悪だくみを考えている時は妖艶なほどで、その度に胸をときめかせたものだが、こんな悔し涙に濡れる顔も悪くない。
「なによ」
ニヤニヤ笑うボレー君に、ルイーズ嬢は不機嫌な声を出す。
「いや、おれは心底君に惚れているんだって、今実感した」
「ばっ……バッカじゃないの!」
突然のストレートな告白に真っ赤になるのだって悪くない。むしろかわいい。
「わたし、性格悪いわよ」
不意打ちから体勢を立て直したルイーズ嬢は、ツンとして言った。
「うん、知っている」
「あなたのことなんて、なんとも思っていないし」
「それも知っている」
「でも利用したわ」
「なかなか楽しかったよ」
「今でもあのデブとバカのこと、簀巻きにして海に放りなげちゃいたいくらい、嫌いなんだから」
「健全な発想だ」
「あなたは本当に」
ついにルイーズ嬢は降参したように笑った。
「途方もないおバカさんなのね」
ボレー君も笑った。
「広い世界だ、こんな奴がいたっていいだろ」
そしてこの翌日。アーリアは突然、姿を消した。




