悲しみよこんにちは
フィンネルと隣国アールの国境には、暗くて深い川がある。
その川沿いの道を派手に飾り立てた馬車が、蹄の音も高らかに疾走していた。
次々と流れてゆく生命力あふれる緑の木々も、二度と見ることはないだろう遠ざかってゆく瀟洒な城にも目をくれず、ジェシカはうつむいてじっとハンカチを握りしめている。
大きく開いた襟ぐりから覗くたわわなバストの半分が、馬車の振動でポヨポヨと揺れている。
むっちりした二の腕もポヨポヨ、コルセットの紐をぶっちぎった過去を持つ豊満なウエストもポヨポヨ、ふくよかなほっぺたもポヨポヨ、全体でポヨポヨ揺れながら、アール国の王女は切なくため息をついた。
「姫さま」
向かいに座っている従者の声に顔を上げると、端正な顔を心配そうに歪めている。
「大丈夫よ、ハインリッヒ。覚悟はできているわ」
むりやり笑顔を作って見せても、たちまちしぼんでしまう。
「……お父さまも強引な手を使われる……」
手の中のハンカチを弄びながら、ぼそりと呟いた。
フィンネル国の嫡男イワンと、アール国の第一王女ジェシカの婚姻話は当人たちが幼いころから出ていたが、もっと曖昧なものだった。が、アールの国王は娘が16歳になった途端、押し付けるも同然に叩き出した。
「少なくとも、フィンネルの方が安全に思えます」
「そうね、その通りだわ」
悪政を行う王と贅沢にしか興味のない王妃に不満の声は少なくない。苦言を呈した宰相を処刑したことで、事態は一層悪化した。
常識的に考えておかしい。
勇気を振り絞って意見したジェシカに、父は激怒した。
「もともと、わたくしは疎まれた存在だったし」
美男美女の多い家系の中で、自分は突然変異だと自覚している。
はれぼったい一重に小さな目。頬の肉に埋もれた鼻。大きなたらこ唇に常人をはるかに上回る体重。
――わしの前に顔を出すな、見苦しい。
――なぜお前みたいな娘がわたくしから生まれたのかしら。
――姉さまみたいに醜くかったら、わたし舌を噛み切って死んじゃうわ。
嘲るような声が蘇る。
婚姻するにあたってフィンネルに送られたジェシカの肖像画は、ウエイト4割減本人比50倍ぐらい美化されたものだ。現物を見て夫となるイワンはきっと、がっかりする。父や母や妹みたいに冷たく当たるに決まっている。
そう思うとジェシカの心はシクシク痛むのだった。
「姫さま」
ハインリッヒは真摯な顔で、丸い手をそっと握った。
「姫さまのお心は、誰よりも美しい。ですから自信を持って下さい。姫さまの良さが分からない奴なんて、人間のカスです。クズです。ただの汚物です」
「だめよ、ハインリッヒ。そんなこと言っちゃあ」
精巧な彫り物のような手を握りしめながら、ジェシカは祈るように額に付けた。
ハインリッヒだけが、ずっと傍にいた。ただ1人の味方だった。
その大切な人とも、あと僅かで別れなければならない。
「でも、ありがとう」
どうしよう、とジェシカはほどんど泣きそうになりながら思った。
こんなに切ないのに、お尻が振動にやられてめちゃくちゃ痛い。
晴れがましいファンファーレが風に乗って運ばれてくる。
きっと隣国の王女が到着したのだろう。
アーリアは自室の部屋の窓に頬を付いて、ぼんやりお城を眺めていた。
いつも仲良くしているリンジーやジャック、ジークはいないし、プチトリアンは新たなる住人を受け入れる為に、浮足立ったような喧騒に包まれている。
その中で1人、ポツンと取り残されたような寂しさを感じながら、
「結婚かー」
と一人ごちた。
結婚という概念がよく分からない。
なぜ結ばれるのに契約をしなければいけないのか。なぜ愛以外の動機で夫婦になるのか。
さっぱり分からない。
リンジーに頼み込んでイワンの妻となる女の絵を見た時、優しそうな人だな、と思った。
「アールの国王は、無慈悲で有名な方なんです。きっと我が王も苦渋の決断をされたのではないでしょうか」
「この人は、ここにきて幸せなのかしら」
「……あたしには何とも……」
イワンも喜んでいるようには見えない。
「義務だから」
ただそう言っただけだった。
ファンファーレが終わり、人々のどよめきに取って代わった。
本当に人間って、どうして複雑に生きようとするんだろう。
勝手に仕組みを作って、勝手にがんじがらめになって右往左往している。
だけどその中で、精一杯生きている。人魚たちのように暇を持て余して、日々遊び暮らす訳ではなく、短い寿命の中で一生懸命生きている。
もしかしたらイワンはこの絵の娘に恋をするかもしれない。
少しだけ傾いた関心は、すべてこの娘に行ってしまうかもしれない。
じんわり滲んだ涙を引っ込めるように、鼻を啜ってアーリアは強い眼差しで彼方を見つめる。
それでもいいわ。
わたしは全てを受け入れてみせる。
「わしを恨んでいるかい?」
王女の到着を待つ一室、唐突に父にそう聞かれ、イワンは目を丸くした。
「いえ、全然」
正装した王は、いつもは隠している威厳を纏っているようにも見える。
「よかったー! いやもう息子に嫌われたらどうしようかと! パパ悲しくなっちゃう! 悲しくなっちゃう!」
前言撤回、威厳かたなし。
「本当にごめんねー。だって隣の王様、超こわいんだもん。断ったら喧嘩ふっかけられそうだし、のらくら引きのばすのも……」
「父上」
指をモジモジさせながら続ける父の言葉を遮って、イワンは頷いた。
「理解しています。国を守る故です。王女ジェシカも何も知らない土地に1人放りこまれて不安なはず、なるべくお互いが歩み寄れるよう、努力いたします」
「まあ、教科書どおりの素敵な言葉ですこと」
シックなドレスに身を包んだ王妃が不機嫌そうに冷笑した。
「ついこの間まで浜辺の娘に夢中と思ったら、よそ様から妻を娶って仲良くしたいとか言いだすなんて、わたしの息子は本当によい子に育ったこと……なんて言うと思っとんのかわれ、ちったあ自分の親父見習って愛の1つや2つ、貫き通せや!!」
「ああ、王妃ちゃん。落ち着いて落ち着いて。そんなに興奮すると化粧がはげちゃうよ」
いきり立つ母をあわてて諌める父。いつもの光景、平常運転。
「分かってるわよ、王さま。でもあなたはみんなにあたしを認めてもらうために、ものすごく苦労をしたじゃない! なのにイワンはただ流されているだけで、アーリアにも隣国の王女にも失礼だわ! それが親として許せないの!」
母の言い分にも一理ある。
というか、それが正しい。
それでもイワンはアーリアを手放すことはできないし、また国を思えば義務を果たさなければと思う。
いつもはちゃらんぽらんな父が、全ての縁談を断って下町のヤンキー(死語)上がりの女を選んだ経緯も、またそれに伴う重圧をはねのけたことも、母が貴族に認められるまでどれだけ忍耐を重ねたかも、素直に尊敬する。
だが、結局はタイミングの問題なのだ。
少なくとも父たちが若かりし頃は、まだ隣国との間柄も平穏でのんびりしたものだった。
「息子よ」
王妃をなだめた王はくるりとイワンに向き直った。
「パーフェクトな人生などあり得ないし、後悔しない選択も存在しない。だが、その道は自分で決めるものだ。わしは、お前の伴侶を決めるという責を課したが、この先どうすればいいかはイワン自身が模索して探しなさい。お前が強く望み、その覚悟があるのならば、わしは神さえも敵に回して応援するよ」
「ありがとうございます」
静かに頭を下げた息子を、うんうんと嬉しそうに見ていた王さまは、王妃に袖をひっぱられてよろめいた。
「王さま、王さま。あたしと結婚したこと後悔してるの?」
「違うよ、王妃ちゃん」
にこにこ笑って王はその頬をなでる。
「どんなに大変でも、王妃ちゃんとなら乗り越えていけると思ったから、一緒になったんじゃないか」
「王さま!」
「王妃ちゃん!」
ひっしと抱き合う2人を尻目に、今まで隅っこの方で我関せずとばかり本を読んでいたジークが冷めた声で言った。
「兄上、とりあえず結婚おめでとう。早く世継を作って幸せになってね。その方がぼくも嬉しいし」
「お前、なにを……」
その時、王女の到着を告げるファンファアーレが鳴り響いた。




