そばにいさせて
ガラガラガラと馬車の音が聞こえると、アーリアは喜び勇んでエントランスにかけてゆく。
「おかえりなさーーい」
ものすごい勢いで抱きついてくるアーリアを、イワンは無表情、かつポケットに手を突っこんでなすがまま、反動で2,3歩よろめいた以外には、何事もなかったように歩き出す。アーリアは大木にしがみ付いた蝉の如く、ひっついている。
ブッチューとキスをかまされても、骨も砕けよとばかりに抱きしめられても、基本セルフサービス、イワン無反応。
「今日も元気だな」
玄関に入ってベリベリと剥がされても、イワンの左腕は組みやすいように少し曲がっている。すかさず両手を巻き付けて、アーリアはにっこりと笑った。
「だっていいお天気なんだもの」
「ランチの後は浜辺にでも行くか」
「賛成!」
頬を薔薇色に染めて手を打つアーリアに、イワンは苦笑した。
「あれから、イワンさまの態度がなんか軟化しとります」
瞬間冷凍芸人の呟きは、見事にスルーされた。
サロッカ披露後、昏倒した原因は極度の疲労及び栄養失調だと判明し、イワンは台所
の主、ハンナを呼びだしたらしい。
かくかくしかじかと事情を説明された小山の如しのどっしり体形、鷲の様なするどい眼光、誇り高い鉤鼻、堂々たる法令線を持つその女は、顔を歪めて頷いた。
「……というわけで、あの娘の偏食を治してくれないか。おれよりもハンナの方が説得力がある」
職人気質の彼女は、プチトリアンに住まうもの、すなわち上は王子から下は食器磨きの少年まで全ての胃袋を掴まないと気が済まない。喜んで拝命した。
と、いうわけでアーリアが長い眠りから目覚めて真っ先に目にしたものは、スプーン片手に「そら口開けな!!」と飛びかかってきた中年女だった。
2時間に及ぶ攻(「魚にしろ野菜にしろ、なんであれアタシたちの口に入るものは全て命が宿っていたもんなんだよ。ミミズだってオケラだってアメンボだって、みんなみんな生きているんだ、食えることに感謝してお食べ!!」)、防(「いやよ、魚はトモダチだもの! そんな残酷なこと出来ないわ! だいたいおばさん、誰!?」)戦では収まらず、延長戦につぐ延長戦の末
「取りあえず、魚以外ならなんでもオッケー」
でお互い納得し、証としてアーリアはチキンスープを平らげた(食うか否やは例にもれず、賭けの対象になっていた)。
とにもかくにも、きちんと栄養を取るようになったアーリアは元気モリモリ、夢もモリモリで、波打ち際で犬っころのように走り廻っている。
「あんまりはしゃいで、転ぶなよ」
「あら、大丈夫よ」
うふふんとアーリアは得意げに笑った。
「あたし、魔法少女に目覚めたのかもしれないわ。だってね、不思議じゃない。ダンスの後気が付いたら、自分のベッドの中だったのよ」
案の定、砂浜に足を取られてよろめいた所を、イワンの手が伸び、細い腰を捉えた。
「目覚めた所で何と戦うんだ、お前は」
「……えーとえーと、それは」
遠くに地平線が見える。太陽の光を受けて、波間がキラキラと光っている。
あの彼方に住んでいた頃が、ものすごく遠く昔に思えた。同時に大好きな人の腕の中にいる今が、夢なんじゃないかと思う。
「どうした、ぼんやりして」
「……なんでもないわ」
「変な奴だな」
「ねえ、イワン」
くるりと身を捩って、アーリアは真っ直ぐイワンを見上げた。
「ん?」
何かを尋ねようと口を2,3度開きかけたが、「やっぱりいい」と目を逸らせる。
ああ、そうかとイワンは思い当った。
「あれか」
片手で抱きかかえられている状態のアーリアは居心地悪そうにモソモソと動く。
「おれが隣国の王女を娶る話か」
「う、うん」
先日決定したその事実をどう伝えようか、思いあぐねている内にアーリアは噂で聞きつけたらしい。
イワンは好き勝手に生きることのできない、自分の立場を弁えている。外交の手段として婚姻は絶好のカードになりうる。そのことに対して異議を唱えようとは思わないが、かといってアーリアを叩き出すには情が移ってしまった。
「イワンの一つ下だから、あたしと同じ年ね。とてもいい人だって聞いたわ」
彼方を見つめながらアーリアは歌うように言う。
「ねえ。あたし、我儘は言わないわ。だからせめて、あなたの傍にいさせて。本当にそれだけでいいの。それだけで幸せなの」
イワンは何も言わなかった。ただ、腰に回している手に、僅かに力が籠った。
「で、兄上は何て?」
初夏を過ぎて太陽が主張する季節になっても、秘密の薔薇園は涼しい風が吹く。芝にひっくり返って頬を付いたジークの声には期待が籠っていた。
「別に、何も」
足を流してペタリと座っているアーリアは、膝上の童話集をパラパラとめくった。
ジークとはこの薔薇園で仲良くなった。お城の色々な話をしてくれて、兄の結婚話を知らせたのも彼である。
「何も? アーリアはそれでいいの? だって婚儀は2日後だろう、せめて君を自由にするのが礼儀だと思うけど、兄上も情けないなぁ」
「あたしは自由よ。自分の意思でここにいるもの」
強がって見せても心は沈む。
イワンが他の誰かと結ばれるのが嬉しいはずがない。でもここで海に帰ったらもう二度と会えない。
「そんなに暗い顔をしていても?」
「……」
アーリアの顔がますます暗くなる。
「大丈夫だよ」
小さな手が伸びて、アーリアの手を励ますように重ねた。
「ぼくがいるから。辛いことは、ぼくに吐きだしちゃいなよ。全部、受け止めるからさ。ね、ぼくは君の味方だよ」
ここのところ読みこんでいる「年上を落とす50の方法」でレクチャーされているセリフを一生懸命思い出しながらジークは言った。他人のセリフだけど、心の底からそう思った。
――人は悲しければ悲しいほど、心に隙間ができます。そのチャンスを見逃さないようにしましょう。
「ありがとう」
アーリアは無邪気に笑った。
「あなたって、海底でそよぐワカメのように優しいのね」
「……褒めてくれるのは嬉しいけど、もっと違う例え思いつかなかったの?」
アーリアの手は、夏でもひんやりと冷たい。
その手に指を絡ませながら、ジークは彼女の不幸を強く願う。




