ばらの花
プチトリアンとお城の間には、王様ご自慢の庭園がある。その片隅の薔薇園は、ジークのお気に入りだった。
天気の良い日や空いた時間をみつけては足を向け、のんびり読書をして過ごす。煩わしい喧騒と無縁のサンクチュアリは自分だけの秘密の場所だったはずなのに、最近になって美しい乱入者が現れるようになった。
(またいる……)
遠くからでも目立つ波打つような赤毛がゆるゆると風にたなびき、シンプルなドレスはくっきりと体のラインを浮き出している。薔薇には見向きもせずに、野花を摘んでは花弁を一枚一枚、ちぎっては嬉しそうに笑う。
その表情を見る度に、胸の奥がキュンと切なく痛むのだった。
(誰なんだろう。あんなにきれいな人、見たことがない)
声を掛けたくても、勇気がでなくて、いつも本を抱えて建物の木陰からこっそり様子を伺うしかできない自分を情けなく思う。結局、その人が立ち去った後に、芝生に散らばった白い花弁をこっそり本に挟むしかできなかった。
だけど、この日は違った。
なぜかしょんぼり肩を落としている後ろ姿が妙に悲しそうで、ジークはついに体中の勇気を集めて声をかけた。
「どうしたの?」
突然、後ろから声をかけられたアーリアはびくりと身をすくませたが、振り返ると13歳くらいの少年だったことに安堵した。イワンによく似た黒い髪に、利発そうな瞳を輝かせている。
「花びら5枚のものを探しているの」
「なんで?」
「幸せになれるから」
なんてことはない。好き、嫌い、好きの花占いをやるには花弁5枚だと「好き」で終われるのを先刻ご承知で、ニチニチ草だのキキョウだのを探していたんである。
「じゃあ、今は幸せじゃないの?」
不思議そうに聞いたジークに、アーリアはただ黙って微笑んだ。
なんてことはない。日々のサラダオンリーに体はフラフラするし、追い打ちをかけるようにイワンにダンスの猛特訓を受けている。恋する人以外を相手する余裕などこれっぽっちもなくて、笑ってごまかそうとしただけなんである。
ところが、その物憂げな微笑にジークは雷に打たれたような衝撃を受けた。
早い話が恋に落ちた。
全ての感情がからっぽだった体の中に、洪水のようになだれ込んできたような、そんな錯覚にさえ陥る。
何かしてあげたくて、でも何をしたらいいのか分からなくて、とっさに近くの薔薇を手折った時。
「あ」
遠くでガラガラと馬車の音が聞こえた。イワンが政務を終え、プチトリアンに帰ってきたのだろう。
「じゃあね、さよなら」
身を翻してアーリアは駆けだした。
「あ、待って。名前を……!」
ジークの声はもう届かない。波打つ赤毛を揺らせて遠ざかっていくその姿が消えても、縋るように宙に浮かせた片手に、赤い薔薇をにぎりしめたまま茫然と立ち尽くしていた。
「足を引けって言ったんだ、何で踏み出す!」
「きゃー!」
「ターンは一回でいい! 勝手にグルグル廻りやがって、駒かお前は!」
「きゃー! きゃー!」
「きゃーきゃーうるさい! このスカタン!」
「最近、イワンさまの罵声のボキャブラリーが増えましたなぁ」
「そうねえ」
相変わらずダンスの練習……というよりむしろ格闘に近いような気がしないでもないが……を見物しながらお付きのジャックとリンジーは感心したように茶を啜っていた。
「しかしあの娘さんも、よう付いていってはんな」
「それよりもイワンさまよ。熱血タイプだとは思わなかったわ」
「あー、熱血とはまたちゃうんちゃうかな」
よいしょ、とジャックは立ち上がり「夜も遅いことですし、今日はそのへんにしはったらどないですか」と格闘中の2人に声をかけた。
「そうだな、さすがに疲れた」
イワンに抱きかかえられたまま目を回していたアーリアは「お休み」と言われることもなく、廊下にペイと放り出される。
「痛い……」
立ち上がろうとすれば、限界を超えた痛みと疲労で、足がブルブル震える。1日の中で一番大変なのが、この時間だった。イワンの部屋から与えられた部屋までが果てしなく長く感じる。
廊下の壁をつたってなんとか体を起したものの、足に力が入らずすぐに転んでしまう。それでももう一度這い上がろうとした時に、手を差し出された。
「大丈夫ですか?」
「リンジーさん……」
女剣士はにっこり微笑むと、軽々とアーリアをおぶった。
「ありがとう、優しいのね」
「いいえ。イワンさまに頼まれたので」
「えっ?」
リンジーはクスクス笑いながら答えてくれた。
「あいつ、いつもこの後、廊下で転んでるからな。リンジー、部屋に連れて帰ってくれ。廊下で寝込まれて風邪でもひかれたら、目覚めが悪いから。ですって。本当にもう、素直じゃないったら」
広い背中はがっしりしていて、暖かかった。
「悪い方じゃないんですよ。女のくせに剣の道に進んだあたしを受け入れてくれたのは、世間でもなく、城の兵士でもなく、イワンさまだけでした。ジャックも同じです。ブリザード芸人の居場所はどこにもなくて、野たれ死にそうになっていたところを拾われたんですよ」
「分かるわ」
嵐に翻弄される船で、とっさの判断を要求される場所で自分より先に乗客を避難させた、そういう人なのだ。
だから好きになった。
「まあ、ご本人はそう評されるのを嫌がるでしょうからね。これはここだけのお話ということで」
「うん」
2人は秘密を共有するようにクスクスと笑う。
それは静かな廊下に柔らかに響いた。




