ほころび始めた楽園
エリザベートがバルセーヌ王国を去ってから、二週間が経過した。
王宮の第二王子執務室は、かつての整然とした静けさを完全に失い、怒号と悲鳴、そして甘ったるい香水の匂いが不快に混ざり合う、混沌とした空間へと変貌していた。
「おい! この書類の山はなんだ! なぜ僕が、こんな細々とした税率の計算や、地方の陳情書をいちいち見なければならないんだ! 財務部は何をやっている!」
レイナルド第二王子は、机の上にうずたかく積まれた書類の山を、苛立ちに任せて薙ぎ払った。
バサバサと床に散らばる書類。かつてなら、これらの書類はレイナルドの元に届く前に、エリザベートの手によって完璧に分類・修正され、彼はただ最後に「承認」のサインをすればいいだけになっていた。
しかし、その「優秀な影武者」はもういない。
青ざめた顔で書類を拾い集めるのは、若手官僚のハンスだった。彼の目の下には、もはや化粧でも隠しきれないほどの濃い隈が刻まれている。
「で、殿下……。これらはすべて、これまでエリザベート様が公爵家系の官僚たちと共に、個人的に処理されていた実務にございます。財務部の主力だった公爵家系の有能な官僚たちは、皆様すでに退官されました。残された我々だけでは、とてもこの量の処理は……物理的に不可能なのです……!」
「黙れ! 言い訳をするな! あいつらがいなくとも、残ったお前たちが倍働けば済む話だろう! それとも何か? お前たちは、僕がエリザベートより劣っているとでも言いたいのか!?」
「そ、そのようなことは……!」
ハンスは必死に頭を下げたが、内心では(その通りだよ、この無能!)と怒り狂っていた。
レイナルドは「自分は優秀だ」と信じ込んでいるが、彼自身が書いた新しい予算案は、現実の物価や流通経路を全く無視した机上の空論ばかり。それを指摘すれば激昂するため、実務に携わる官僚たちの胃には、毎日ストレスで穴が開きそうになっていた。
そのとき、執務室の豪奢な扉が、ノックもなしにふわりと開いた。
「レイナルド殿下ぁ……。私、もう疲れちゃいましたぁ……」
現れたのは、淡いピンクのフリルをこれでもかとあしらったドレスを身にまとったマリアだった。
彼女は、お盆の上に載せたハーブティーをカタカタと鳴らしながら、頼りなげな足取りでレイナルドに歩み寄る。
「おお、マリア! どうしたんだい? そんなに青い顔をして」
「神殿での、大結界のお勉強が……どうしても難しくてぇ……。神官様たちが、難しい数式や魔力の構築理論ばかり言ってくるんですぅ。私、頭が痛くなっちゃって、涙が止まらなくなっちゃいました……」
マリアはうるんだ瞳でレイナルドを見上げ、今にも倒れそうな様子で彼の胸に身を預けた。
その首元には、かつてエリザベートが大切にしていた王室秘蔵のサファイアのペンダントが、これ見よがしに輝いている。婚約破棄の翌日、マリアが「これ、とっても綺麗ですねぇ」と強ねだったため、レイナルドがエリザベートの私物から勝手に持ち出して与えたものだ。
「なんだと!? 神官どもめ、本物の聖女であるマリアに対して、そんな無礼な講義をしているのか! マリアは祈るだけで奇跡を起こせる聖女なのだぞ。そんなお堅い数式など、学ぶ必要はない!」
「そうですよねぇ……。お姉様はいつも、意地悪そうに分厚い本を読んで私を睨んでいました。きっと、お姉様が嫌がらせで、魔法をわざと複雑にしておいたに違いないんですぅ。私が上手に結界を動かせないのは、全部、お姉様が残していった魔導具にかけた『意地悪な呪い』のせいなんです……!」
「全くだ! どこまで陰湿な女なのだ、エリザベートは! 己が去った後も、こうして可憐なマリアを苦しめるとは!」
レイナルドはマリアの頭を優しく撫で、その肩を抱き寄せた。
「マリア、もうそんな難しい勉強はしなくていい。結界の維持など、部下の魔術師たちにやらせればいいのだ。君はただ、僕の隣で可愛らしく微笑んでいてくれれば、それでいいんだよ」
「はい、殿下……! 殿下は本当に、私をよく理解してくださって、お優しいですぅ……。あ、お仕事でお疲れの殿下に、お紅茶を淹れてきましたの。お砂糖をいーっぱい入れておきましたから、召し上がってくださいねぇ」
「ありがとう、マリア。君の淹れてくれたお茶は、本当に心を癒やしてくれるな。あの可愛げのない女が淹れた冷たい紅茶とは大違いだ」
二人は、散らばった重要書類を踏みつけながら、甘ったるいお茶を飲んで互いに見つめ合い、現実から目を背けていた。
しかし、現場の人間たちにとって、それは「癒やし」などではなく「破滅の序曲」でしかなかった。
「……また、計算が合わない」
深夜の王宮魔導師団の宿直室。
団長を務める中年の魔術師、エドワードは、目の前の魔力測定器の数値を睨みつけ、絶望的な溜め息をついた。
「エドワード団長! 王都外周、第三区画の防壁魔力が、基準値の半分以下に低下しています! このままでは、予備魔力が尽きる前に、魔導具そのものが魔力切れで停止します!」
駆け込んできた部下の報告に、エドワードは頭を抱えた。
「なぜだ! 神殿から来た新しい聖女様は、毎日魔力を供給してくださっているのだろう!?」
「それが……」
部下は、酷く軽蔑の混じった口調で言った。
「マリア様は、魔導具の前に来ては『がんばれ、がんばれ、結界さんぅ!』と手を叩いてお祈りするだけなのです。魔力を効率的に流し込むための『術式接続』の基礎すら拒否されていて……。結果として、彼女の魔力は魔導具に全く吸入されず、周囲にただ霧散しているだけでございます。あれは……魔力の供給ではなく、ただの『お遊戯』です」
「なんだと……!?」
「それどころか、マリア様が無理やり魔導具を撫で回したせいで、エリザベート様が構築されていた繊細な術式の接続部分が一部摩耗し、魔力の漏出が始まっています。このままでは、あと二週間も持たずに大結界は完全に崩壊します!」
エドワードは、椅子から立ち上がり、窓の外の夜空を見上げた。
王都を囲む、かすかな黄金色の光のドーム。これが消えれば、国境の森に生息する獰猛な魔獣たちが、一斉にこの街に流れ込んでくる。
「今すぐ、第二王子殿下に報告だ! 聖女マリア様の魔力供給プロセスを根本から見直すか、あるいは……一刻も早く、エリザベート様に戻っていただくよう懇願するしかない!」
「しかし団長、第二王子殿下は現在、マリア様を傷つける進言はすべて『前婚約者のシンパによる陰謀』として、聞く耳を持たれません! 昨日も、同じことを言った財務部長が、その場で更迭されました……!」
「……なんということだ」
エドワードは拳を握りしめ、震えた。
国を支えていたのは、王家の血筋でも、甘えた声で男をおねだりする平民の聖女でもない。
常に冷徹なまでに完璧で、それゆえに「可愛げがない」と疎まれていた、あの黒髪の公爵令嬢だったのだ。
「この国は……終わるぞ」
エドワードのその呟きは、王宮の冷たい石壁に吸い込まれ、誰に届くこともなく消えていった。
その頃。
バルドル帝国の豪奢な客間では、エリザベートがジュリアス皇帝と共に、優雅な夜のティータイムを楽しんでいた。
「――それでね、ジュリアス陛下。王国の財務システムは、各地方の徴税官が二重に帳簿をつけていることが多くて。まずはそこからメスを入れなければ、いくら予算を削っても意味がありませんわ」
エリザベートが、帝国東部の荒地開発に関する予算書を見ながら、的確な指摘を述べる。
ジュリアスは、彼女が差し出した極上のアールグレイを口に含み、深く満足そうに目を細めた。
「実に見事だ、エリザベート。我が国の財務大臣が三日かけても見抜けなかった使途不明金の流れを、君はわずか数分で看破した。君のその素晴らしい頭脳は、我が国の宝だ」
「あら、褒めすぎですわ。これくらい、バルセーヌ王国では『可愛げのない女の小賢しい知識』と切り捨てられていたものですから」
「ふん。その『可愛げ』とやらを履き違えた愚か者たちは、今頃、自分たちがどんなお荷物を抱え込んだか思い知っている頃だろうな」
ジュリアスは、意地悪く、しかし極めて魅力的な笑みを浮かべた。
「我が国の情報部からの報告によれば、王国の結界は早くも崩壊の兆しを見せているそうだ。新しい聖女様は、魔導具の前でお祈りのダンスを踊っているらしいぞ?」
「お祈りの、ダンス……? ふふ、まあ。マリア様は本当にユニークなお方ですこと」
エリザベートは扇で口元を隠し、くすくすと上品に笑った。その紫の瞳には、かつての祖国に対する未練など、塵ほども残っていない。
「お望み通り、私のお気に入りの家具も紅茶も、すべて差し上げてきましたもの。……せいぜい、私が消えた後の『甘いお茶会』を、破滅の瞬間まで楽しんでいただきたいわ」
帝国の夜風は、どこまでも心地よく、冷徹な女神の帰還を祝福するように、彼女の漆黒の髪を優しく揺らしていた。
(第5話へ続く)




